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2009.06.01
霊界にこそ真理あり
地上の人間は、霊の世界に対して、目が閉ざされています。
しかし、いつも霊界からは、その存在を知らせようとする力が働いています。
19世紀イタリアに生きたフランチェッツォという霊人からの真摯なるメッセージです。
わたしのように一度死んだ人間の霊人が、
この地上に再訪する可能性について考えてみることはよくないことなのか、
どうか皆さんが自らに尋ねてみてほしいと思います。
また、罪深い者が死んだ後に与えられる慈悲の福音を信じる方々は、
知っておられるでしょうか、
良心が目覚めた者が味わう呵責がどんなものかということを?
わたしたちの魂が神の元に戻ろうとするときに辿る悔い改めのための苦い涙の道、
うんざりする苦労の道を見たことがあるでしょうか?
地上の人生での罪深い行為や言葉、
あるいは罪の思いを償うことの意味を理解できるでしょうか?
それらがどんなに小さなものであっても償われねばならないのです。
自分で満たした杯は自分で最後まで飲み干さねばなりません。
過去の自分の汚れがその子孫の血流に潜み、それが彼らを害し、
子孫に呪いとなってふりかかるのを見ながら、地表の上をどうしようもないまま、
希望もなく無力に漂うことがどういうことか想像できますか?
何百年も前に死んだ霊人たちが、今もなお地球に対してなぜ働きかけているのか、
どのようにして働きかけているのかわかりますか?
墓石の彼方から、自分が裏切った相手に対してその罪の贖いを求めて大声で叫ぶ霊人が、
どんな風に感じているか想像できますか?
全ての人々の耳は彼の言葉には塞がれていて、
その心は彼が心の痛みから発する呼び声には閉ざされているのです。
彼は霊界に来てしまった今となっては、
地上で犯した愚かな復警の行為一つさえ償うことはできません。
彼は人々に、あるいは自分自身に対して与えた苦痛の一つさえ消し去ることもできません。
彼の前には恐ろしい壁がそそり立ち、
気の遠くなるような深淵が、彼と地上の人間との間に口を開いています。
地上の人間は死の門の向こう側から聞こえて来る、
彼らを待ち受けている運命を予示する声を聞く必要はないのでしょうか?
人間が悔い改めるには、地上にいる間のほうが、
死んで霊の世界へ行った後よりはるかに簡単なことなのです。
地球の人類の幼児時代、彼の心的条件がいまだに幼児のそれと類似している段階では、
その時代は、信仰の時代と呼ぶことができるでしょう。
母なる教会は、人々に慰めと不死の希望を与え、彼らの心から、自分自身の存在と、
自然の存在にかかわってくる第一原因というものについて考える負担を取り除くものでした。
信仰は母親のように未熟な段階の魂の求めるものを与える役割を果たしています。
幼児の段階にある人類は理由もわからないまま信仰するのです。
しかし、知性が発達すると人間は、
未知の事柄に対して盲目的な信仰だけでは満足できなくなります。
教会が与えてくれるミルクだけでは、人の精神の渇きを鎮めることはできなくなったのです。
人々はもっとしっかりした食物を求めているのに、それが与えられなければ、
これまで魂を育ててくれた教会が、今度は魂の成長と発展を束縛する存在となり、
害となって拒絶されるようになってしまうのです。
人の理性はより大きな自由を要求しますから、
教会がそれに応えることができなければ、成長する反抗的な子供と、
今まで子供に対して行使してきた力を保ちたいと願う教会との間に闘争が起こります。
その結果、それまでは子供の食物として十分だった信仰というものが、
何か気分を悪くするもののように見え始めてくるのです。
そうして理性の時代は、過去の信仰を根こそぎ否定するような時代となったのです。
その後新しい時代が来て、
かつて子供であった人類も青年となって自ら喜びや悲しみを味わい、
自らの理性で考え、行動するようになってきました。
そのなかで理性という機能の限界や能力を正しく評価することを学んだのです。
こうして青年となった人類は、一度は軽蔑し否定してしまった信仰を振り返り、
そこにも美点や価値があることを認めるようになりました。
信仰だけでは子供の時代を過ぎた人間の魂の欲求には応えきれないと見なしますが、
同時に信仰を抜きにした理性だけでは魂は冷たい塊のままでとどまってしまいます。
しかし今や、その魂が測ることのできない無限の宇宙が存在し、
その宇宙に囲まれて人間は存在していることを自覚し始めました。
さらに、この宇宙には多くの神秘が隠されていて、
理性だけでは到底説明できないと自覚しています。
人はもう一度信仰の世界へ戻りつつありり、
その信仰を理性と一体化し、お互いが支え合うことができるようにしようとしています。
信仰と理性は霊界の二つの異なった思想領域の中心的思考原理なのです。
信仰は、宗教ないしは教会精神の活性原理であり、理性は哲学のそれです。
この二つは当初は、お互いに敵対するものとして現れましたが、
しだいに一つの人格の中で心を発展させるために協力し合えることがわかってきたのです。
二つが平等に働くとき、心は均衡のとれた状態で存在できるのです。
一方が他方を必要以上に支配すると、地上人であれ肉体を離れた霊人であれ、
心が狭くなり一方に偏ってしまうので、心の問題を正しく見ることができなくなります。
それは大きな車輪と小さな車輪を同じ車軸に持つ二輪馬車のようなものです。
この状態では、どちらの車輪もうまく働きませんから、この馬車は停止されねばなりません。
同じく、もし彼の知性と道徳的な能力が均等に発達していなければ、
彼の心は大きな誤謬で塞がれてしまし、真理の星からの光線が、
真っ直ぐ彼の心に射し込むことはありません。
そのため、真理が彼の心には全く到達できないか、届いたとしても、
歪められた内容になってしまい、かえって偏見と間違いの原因となってしまいます。
知性は魂の目と言えるでしょう。
ですから、その目の視覚が不完全であれば、
どんなに光に対する欲求が強くても彼の魂は時間の中にとどまることになります。
魂の視覚を発達させ、はっきりと真理を見つめられるようにならなければなりません。
盲目的で無知な信仰では誤謬を避けることはできません。
多くの宗教迫害の歴史は確かにそのことを証明しています。
偉大なる発見をした地上の人物たちは皆道徳的な力と知性の力の両方が均等しています。
完成した人間や天使と言われる存在は、
あらゆる特質が最高度に発達した魂の持ち主なのです。
魂が持っている精神的、道徳的特質は、
それぞれ、それと対応する色の光線を持っています。
それらが混ざり合って美しい虹の色合いを形成し、完全な調和を作りだしています。
魂のなかには、その知性と道徳性の芽が眠ったままで、
それらが存在する徴候さえ見えない場合もあります。
しかし、それでも存在しているのです。
それらは地上あるいはあの世において、
いつか必ず成長し完成して花開くようになるのです。
悪は、ある魂の道徳的特質が発達せず、
他の特質が過剰に発達してしまったことによるものです。
低級な霊領域に存在している霊人たちは、
眠っている道徳的能力を目覚めさせるために必要な教育過程を通過しつつあるだけなのです。
そこで生じる苦悩は、彼らの魂の発達に必要なものです。
A・ファーニス「スピリットランド」
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しかし、いつも霊界からは、その存在を知らせようとする力が働いています。
19世紀イタリアに生きたフランチェッツォという霊人からの真摯なるメッセージです。
わたしのように一度死んだ人間の霊人が、
この地上に再訪する可能性について考えてみることはよくないことなのか、
どうか皆さんが自らに尋ねてみてほしいと思います。
また、罪深い者が死んだ後に与えられる慈悲の福音を信じる方々は、
知っておられるでしょうか、
良心が目覚めた者が味わう呵責がどんなものかということを?
わたしたちの魂が神の元に戻ろうとするときに辿る悔い改めのための苦い涙の道、
うんざりする苦労の道を見たことがあるでしょうか?
地上の人生での罪深い行為や言葉、
あるいは罪の思いを償うことの意味を理解できるでしょうか?
それらがどんなに小さなものであっても償われねばならないのです。
自分で満たした杯は自分で最後まで飲み干さねばなりません。
過去の自分の汚れがその子孫の血流に潜み、それが彼らを害し、
子孫に呪いとなってふりかかるのを見ながら、地表の上をどうしようもないまま、
希望もなく無力に漂うことがどういうことか想像できますか?
何百年も前に死んだ霊人たちが、今もなお地球に対してなぜ働きかけているのか、
どのようにして働きかけているのかわかりますか?
墓石の彼方から、自分が裏切った相手に対してその罪の贖いを求めて大声で叫ぶ霊人が、
どんな風に感じているか想像できますか?
全ての人々の耳は彼の言葉には塞がれていて、
その心は彼が心の痛みから発する呼び声には閉ざされているのです。
彼は霊界に来てしまった今となっては、
地上で犯した愚かな復警の行為一つさえ償うことはできません。
彼は人々に、あるいは自分自身に対して与えた苦痛の一つさえ消し去ることもできません。
彼の前には恐ろしい壁がそそり立ち、
気の遠くなるような深淵が、彼と地上の人間との間に口を開いています。
地上の人間は死の門の向こう側から聞こえて来る、
彼らを待ち受けている運命を予示する声を聞く必要はないのでしょうか?
人間が悔い改めるには、地上にいる間のほうが、
死んで霊の世界へ行った後よりはるかに簡単なことなのです。
地球の人類の幼児時代、彼の心的条件がいまだに幼児のそれと類似している段階では、
その時代は、信仰の時代と呼ぶことができるでしょう。
母なる教会は、人々に慰めと不死の希望を与え、彼らの心から、自分自身の存在と、
自然の存在にかかわってくる第一原因というものについて考える負担を取り除くものでした。
信仰は母親のように未熟な段階の魂の求めるものを与える役割を果たしています。
幼児の段階にある人類は理由もわからないまま信仰するのです。
しかし、知性が発達すると人間は、
未知の事柄に対して盲目的な信仰だけでは満足できなくなります。
教会が与えてくれるミルクだけでは、人の精神の渇きを鎮めることはできなくなったのです。
人々はもっとしっかりした食物を求めているのに、それが与えられなければ、
これまで魂を育ててくれた教会が、今度は魂の成長と発展を束縛する存在となり、
害となって拒絶されるようになってしまうのです。
人の理性はより大きな自由を要求しますから、
教会がそれに応えることができなければ、成長する反抗的な子供と、
今まで子供に対して行使してきた力を保ちたいと願う教会との間に闘争が起こります。
その結果、それまでは子供の食物として十分だった信仰というものが、
何か気分を悪くするもののように見え始めてくるのです。
そうして理性の時代は、過去の信仰を根こそぎ否定するような時代となったのです。
その後新しい時代が来て、
かつて子供であった人類も青年となって自ら喜びや悲しみを味わい、
自らの理性で考え、行動するようになってきました。
そのなかで理性という機能の限界や能力を正しく評価することを学んだのです。
こうして青年となった人類は、一度は軽蔑し否定してしまった信仰を振り返り、
そこにも美点や価値があることを認めるようになりました。
信仰だけでは子供の時代を過ぎた人間の魂の欲求には応えきれないと見なしますが、
同時に信仰を抜きにした理性だけでは魂は冷たい塊のままでとどまってしまいます。
しかし今や、その魂が測ることのできない無限の宇宙が存在し、
その宇宙に囲まれて人間は存在していることを自覚し始めました。
さらに、この宇宙には多くの神秘が隠されていて、
理性だけでは到底説明できないと自覚しています。
人はもう一度信仰の世界へ戻りつつありり、
その信仰を理性と一体化し、お互いが支え合うことができるようにしようとしています。
信仰と理性は霊界の二つの異なった思想領域の中心的思考原理なのです。
信仰は、宗教ないしは教会精神の活性原理であり、理性は哲学のそれです。
この二つは当初は、お互いに敵対するものとして現れましたが、
しだいに一つの人格の中で心を発展させるために協力し合えることがわかってきたのです。
二つが平等に働くとき、心は均衡のとれた状態で存在できるのです。
一方が他方を必要以上に支配すると、地上人であれ肉体を離れた霊人であれ、
心が狭くなり一方に偏ってしまうので、心の問題を正しく見ることができなくなります。
それは大きな車輪と小さな車輪を同じ車軸に持つ二輪馬車のようなものです。
この状態では、どちらの車輪もうまく働きませんから、この馬車は停止されねばなりません。
同じく、もし彼の知性と道徳的な能力が均等に発達していなければ、
彼の心は大きな誤謬で塞がれてしまし、真理の星からの光線が、
真っ直ぐ彼の心に射し込むことはありません。
そのため、真理が彼の心には全く到達できないか、届いたとしても、
歪められた内容になってしまい、かえって偏見と間違いの原因となってしまいます。
知性は魂の目と言えるでしょう。
ですから、その目の視覚が不完全であれば、
どんなに光に対する欲求が強くても彼の魂は時間の中にとどまることになります。
魂の視覚を発達させ、はっきりと真理を見つめられるようにならなければなりません。
盲目的で無知な信仰では誤謬を避けることはできません。
多くの宗教迫害の歴史は確かにそのことを証明しています。
偉大なる発見をした地上の人物たちは皆道徳的な力と知性の力の両方が均等しています。
完成した人間や天使と言われる存在は、
あらゆる特質が最高度に発達した魂の持ち主なのです。
魂が持っている精神的、道徳的特質は、
それぞれ、それと対応する色の光線を持っています。
それらが混ざり合って美しい虹の色合いを形成し、完全な調和を作りだしています。
魂のなかには、その知性と道徳性の芽が眠ったままで、
それらが存在する徴候さえ見えない場合もあります。
しかし、それでも存在しているのです。
それらは地上あるいはあの世において、
いつか必ず成長し完成して花開くようになるのです。
悪は、ある魂の道徳的特質が発達せず、
他の特質が過剰に発達してしまったことによるものです。
低級な霊領域に存在している霊人たちは、
眠っている道徳的能力を目覚めさせるために必要な教育過程を通過しつつあるだけなのです。
そこで生じる苦悩は、彼らの魂の発達に必要なものです。
A・ファーニス「スピリットランド」



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