| Home |
2009.07.03
日本仏教再考
いよいよ、近代仏教批判が本格化してまいりました。
これは、唯物論の呪縛が解けはじめた日本アカデミズム界の状況と連動していると言えます。
お坊さんも、回心をせまられているのです。
岩波仏教辞典も執筆されている東大系の学者さまの考察です。
明治維新の残した大きな爪あとは、
伝統文化の諸ジャンルを生み出す母体だった伝統的な宗教のあり方そのものが、
大きく変えられたことである。
古代に仏教が日本に伝わって以来千数百年、日本では神仏習合、
以前からの神と新たにはいってきた仏をひとつの宗教として信仰してきた。
それが神仏分離令が出されることによって、別々の宗教として切り離されたのである。
私たちが京都や奈良や鎌倉を訪れて参拝する歴史ある寺社の姿は、
実は明治以前とは大きく異なっている。
あるところでは仏をまつったお堂や塔を取り壊して神道の神社とし、
あるところでは仏教系の神をまつっていたのを、
『古事記』や『日本書紀』に登場する神に祭神を改め、修験道は禁止された。
今、神社でおこなわれている祭祀は明治以前のものとは異なる場合が多いし、
寺院では儀礼は維持されていても、その説明が大きく変えられていることが多い。
100年ちょっと前に日本人が何を信じていたのかということすら、
今の日本人には容易に知ることができなくなっているのである。
これは神社の信仰を天皇と結びつけることによって、
国家の精神的支柱にしようという国家神道の考えに基づくもので、
そのため仏教的な神や、神々の世界とされる自然の中で仏教的な修行をおこなう修験道が、
規制の対象となったのである。
発生の地インドにおいても土地の神々の信仰との密接な関わりを持っていて、
仏教の守護者として位置づけられたインドの神々が、仏教の伝播にともなって、
中国、日本やチベットなどに広まっていった。
大黒天、弁才天、毘沙門天、荼吉尼天(稲荷)など、
仏教で天部と呼ばれる神々がそれである。
お稲荷さんは日本全国に多数まつられていて、
多くの人は狐の神様と思っているかもしれないが、
狐は神のお使い、乗物で、狐に乗って剣と宝珠を持った女神が元の姿である。
そもそも分離とはいっても、くっついたものを単純に二つに分けたわけではなく、
明治政府の政策下で寺社を経済的に支えてきた所領は没収、
僧の特権はすべて剥奪され、神主に対しては優遇処置がとられ、
日本仏教は存続の危機に立たされた。
仏教教団は生き残りのために社会の近代化、
西洋化に合わせて説明を大きく変え、今に至っている。
学校教科書の奈良時代や鎌倉時代の仏教の説明も、
近代的な考えを遡って当てはめたもので、
当時の人が実際に信仰していたものとは異なる。
仏教はアジア各地に広まっているが、
現代の日本人が他の国の仏教に接する時、
よくも悪くも日本仏教とは大きく異なるものという印象を持つことが多い。
しかしそれは、他の国の仏教が特殊だからではなく、
近代における日本仏教の改変による場合が多いのである。
たとえば、チベット仏教に『チベットの死者の書』と呼ばれる教えがある。
チベットでは、人は死んで七週間の間に他の生き物に生まれ変わると考えられており、
「バルド」と呼ばれるその期間、この教えが死者のために唱えられる。
この「バルド」は直訳すると「間」を意味するチベット語で、
仏教用語の「中有(中陰)」に相当する言葉である。
教えそのものは、チベットのものだが、その背景となっているのは仏教一般の考え方で、
日本の「初七日」や「四十九日」といった追善儀礼(中陰廻向)も、同じ考えに基づいている。
仏教では、すべてのことは原因なく生じることなく、
よいことをおこなえば、よい結果、悪いことをおこなえば、悪い結果がもたらされるとされ、
人が次に何に生まれ変わるかは、その人のそれまでのおこないによって決まるとされている。
死んだ本人自身は、それ以上よいことも悪いことも、おこなうことができないが、
必ずしも死んですぐではなく、七週間の間に生まれ変わるとされているため、
その期間、遺産の一部を僧やお寺に布施して、
法要のスポンサーとなるという形をとることによって、追善をおこなう。
これが中陰廻向の本来の説明で、生まれ変わるまでの七週間、
初七日から七七=四十九日まで、一週間おきにおこなうのが正式のやり方だった。
今日では、初七日や四十九日は単なる儀礼の名称のように思われて、
実際にその日におこなわれない場合も多く、
輪廻を仏教の教えではないと否定する僧侶も少なくないが、
それは近代化に合わせた改変であって、
『チベットの死者の書』と日本の中陰廻向の背景となっているものは共通の教えなのである。
もうひとつ、チベット仏教の特色とされるものに、活仏制度がある。
チベットには高僧が亡くなると、生まれ変わりの少年を探して、
その地位につける制度があり、現在のダライ・ラマは十四世で、
十三世の没後に探し出されたその生まれ変わりである。
これはチベット仏教が、輪廻思想を持つからだと説明されることがあるが、
それはまったくの間違いである。
輪廻はチベットに限った考えではなく、
西洋的な考えに合わせて説明を大きく変えた近代日本仏教と、
カースト制度への批判から、
近代になって生まれたインドの新仏教徒運動(アンベートカルの提唱)を除く、
ほとんどの仏教の伝統において信じられている。
生まれ変わりの少年を探して地位を継承させる制度こそチベット独特のものだが、
菩薩の誓願は、大乗仏教の実践の核心というべきもので、
日本や中国の仏教でも、きわめて重要な意味を持っていた。
日本の仏教寺院をたずねると、
釈迦牟尼仏や阿弥陀仏のような仏陀と一緒に、
その宗派の開祖などの高僧がまつられていることが多いが、
明治以前においては、彼らはダライ・ラマと同じ仏菩薩の化身として信仰の対象とされていた。
たとえば、聖徳太子は日本に仏教を広めるために生まれてきた観音菩薩の化身、
奈良時代の聖武天皇は東大寺の大仏を建立するために聖徳太子が再び生まれてきた存在で、
それに協力した僧行基は文殊菩薩の化身。
「南無阿弥陀仏」を唱える浄土信仰を広めた法然は阿弥陀仏の脇侍で、
阿弥陀仏の智慧を象徴するとされている勢至菩薩の化身。
その弟子で浄土真宗の開祖とされている親鸞は阿弥陀仏の慈悲を象徴する観音菩薩の化身。
「南無妙法蓮華経」を唱える法華経信仰を広めた日蓮は、法華経の中で、
釈尊によって将来法華経の教えを広めると予言されている菩薩(地涌の菩薩)の一人、
上行菩薩の化身とされた。
吉村均「神と仏の倫理思想」
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
これは、唯物論の呪縛が解けはじめた日本アカデミズム界の状況と連動していると言えます。
お坊さんも、回心をせまられているのです。
岩波仏教辞典も執筆されている東大系の学者さまの考察です。
明治維新の残した大きな爪あとは、
伝統文化の諸ジャンルを生み出す母体だった伝統的な宗教のあり方そのものが、
大きく変えられたことである。
古代に仏教が日本に伝わって以来千数百年、日本では神仏習合、
以前からの神と新たにはいってきた仏をひとつの宗教として信仰してきた。
それが神仏分離令が出されることによって、別々の宗教として切り離されたのである。
私たちが京都や奈良や鎌倉を訪れて参拝する歴史ある寺社の姿は、
実は明治以前とは大きく異なっている。
あるところでは仏をまつったお堂や塔を取り壊して神道の神社とし、
あるところでは仏教系の神をまつっていたのを、
『古事記』や『日本書紀』に登場する神に祭神を改め、修験道は禁止された。
今、神社でおこなわれている祭祀は明治以前のものとは異なる場合が多いし、
寺院では儀礼は維持されていても、その説明が大きく変えられていることが多い。
100年ちょっと前に日本人が何を信じていたのかということすら、
今の日本人には容易に知ることができなくなっているのである。
これは神社の信仰を天皇と結びつけることによって、
国家の精神的支柱にしようという国家神道の考えに基づくもので、
そのため仏教的な神や、神々の世界とされる自然の中で仏教的な修行をおこなう修験道が、
規制の対象となったのである。
発生の地インドにおいても土地の神々の信仰との密接な関わりを持っていて、
仏教の守護者として位置づけられたインドの神々が、仏教の伝播にともなって、
中国、日本やチベットなどに広まっていった。
大黒天、弁才天、毘沙門天、荼吉尼天(稲荷)など、
仏教で天部と呼ばれる神々がそれである。
お稲荷さんは日本全国に多数まつられていて、
多くの人は狐の神様と思っているかもしれないが、
狐は神のお使い、乗物で、狐に乗って剣と宝珠を持った女神が元の姿である。
そもそも分離とはいっても、くっついたものを単純に二つに分けたわけではなく、
明治政府の政策下で寺社を経済的に支えてきた所領は没収、
僧の特権はすべて剥奪され、神主に対しては優遇処置がとられ、
日本仏教は存続の危機に立たされた。
仏教教団は生き残りのために社会の近代化、
西洋化に合わせて説明を大きく変え、今に至っている。
学校教科書の奈良時代や鎌倉時代の仏教の説明も、
近代的な考えを遡って当てはめたもので、
当時の人が実際に信仰していたものとは異なる。
仏教はアジア各地に広まっているが、
現代の日本人が他の国の仏教に接する時、
よくも悪くも日本仏教とは大きく異なるものという印象を持つことが多い。
しかしそれは、他の国の仏教が特殊だからではなく、
近代における日本仏教の改変による場合が多いのである。
たとえば、チベット仏教に『チベットの死者の書』と呼ばれる教えがある。
チベットでは、人は死んで七週間の間に他の生き物に生まれ変わると考えられており、
「バルド」と呼ばれるその期間、この教えが死者のために唱えられる。
この「バルド」は直訳すると「間」を意味するチベット語で、
仏教用語の「中有(中陰)」に相当する言葉である。
教えそのものは、チベットのものだが、その背景となっているのは仏教一般の考え方で、
日本の「初七日」や「四十九日」といった追善儀礼(中陰廻向)も、同じ考えに基づいている。
仏教では、すべてのことは原因なく生じることなく、
よいことをおこなえば、よい結果、悪いことをおこなえば、悪い結果がもたらされるとされ、
人が次に何に生まれ変わるかは、その人のそれまでのおこないによって決まるとされている。
死んだ本人自身は、それ以上よいことも悪いことも、おこなうことができないが、
必ずしも死んですぐではなく、七週間の間に生まれ変わるとされているため、
その期間、遺産の一部を僧やお寺に布施して、
法要のスポンサーとなるという形をとることによって、追善をおこなう。
これが中陰廻向の本来の説明で、生まれ変わるまでの七週間、
初七日から七七=四十九日まで、一週間おきにおこなうのが正式のやり方だった。
今日では、初七日や四十九日は単なる儀礼の名称のように思われて、
実際にその日におこなわれない場合も多く、
輪廻を仏教の教えではないと否定する僧侶も少なくないが、
それは近代化に合わせた改変であって、
『チベットの死者の書』と日本の中陰廻向の背景となっているものは共通の教えなのである。
もうひとつ、チベット仏教の特色とされるものに、活仏制度がある。
チベットには高僧が亡くなると、生まれ変わりの少年を探して、
その地位につける制度があり、現在のダライ・ラマは十四世で、
十三世の没後に探し出されたその生まれ変わりである。
これはチベット仏教が、輪廻思想を持つからだと説明されることがあるが、
それはまったくの間違いである。
輪廻はチベットに限った考えではなく、
西洋的な考えに合わせて説明を大きく変えた近代日本仏教と、
カースト制度への批判から、
近代になって生まれたインドの新仏教徒運動(アンベートカルの提唱)を除く、
ほとんどの仏教の伝統において信じられている。
生まれ変わりの少年を探して地位を継承させる制度こそチベット独特のものだが、
菩薩の誓願は、大乗仏教の実践の核心というべきもので、
日本や中国の仏教でも、きわめて重要な意味を持っていた。
日本の仏教寺院をたずねると、
釈迦牟尼仏や阿弥陀仏のような仏陀と一緒に、
その宗派の開祖などの高僧がまつられていることが多いが、
明治以前においては、彼らはダライ・ラマと同じ仏菩薩の化身として信仰の対象とされていた。
たとえば、聖徳太子は日本に仏教を広めるために生まれてきた観音菩薩の化身、
奈良時代の聖武天皇は東大寺の大仏を建立するために聖徳太子が再び生まれてきた存在で、
それに協力した僧行基は文殊菩薩の化身。
「南無阿弥陀仏」を唱える浄土信仰を広めた法然は阿弥陀仏の脇侍で、
阿弥陀仏の智慧を象徴するとされている勢至菩薩の化身。
その弟子で浄土真宗の開祖とされている親鸞は阿弥陀仏の慈悲を象徴する観音菩薩の化身。
「南無妙法蓮華経」を唱える法華経信仰を広めた日蓮は、法華経の中で、
釈尊によって将来法華経の教えを広めると予言されている菩薩(地涌の菩薩)の一人、
上行菩薩の化身とされた。
吉村均「神と仏の倫理思想」



クリックして愚僧の活動に御協力ください。
スポンサーサイト
| Home |