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2010.01.26 正義を守れ
いよいよおナワ間近?








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唯物論にもとづく機械宇宙論は、過去の遺物となりつつあります。

すべてを偶然に帰するそのような悲愴なものの見方では、
宇宙の意味も目的も見出すことはできません。

いまや人類は、偶然教信仰から離れて、必然を探りはじめているのです。




今日、とくに物理学においては、
ほとんど全員がそう考えているような、幅広い同意がある。
それは、知識の流れが非機械的なリアリティに向かっているということである。
宇宙は大きな機械というより、大きな思考であるように見えはじめているのだ。
心はもはや、物質の領域への偶然の侵入者ではない。
われわれはそれを、むしろ物質領域の創造者、
支配者として歓迎すべきではないかと考えはじめている。
新しい知識に照らしてみれば、われわれは、生命に関心をもっていない、
あるいは生命に対して積極的に敵対する宇宙に、偶然足を踏み入れてしまった、
という性急な第一印象を、いまや改めざるをえない。
心と物質という古い二元論は、
そのような仮想の敵意をもたらした大きな原因だが、もうそれは消えるように思える。
ただしそれは、物質がこれまでより何がしか曖昧に、
何がしか非実在的になったからでも、心が物質の作用に溶け込んだからでもない。
実在する物質が、心の創造と顕現のなかに溶け込んだからである。
われわれにわかってきたことは、
宇宙がデザインの力、あるいは統制の力の証拠を示していることだ。
われわれは、最初に感じたほど宇宙の侵入者でも、宇宙の部外者でもないのだ。


ジェームス・ジーンズ「神秘な宇宙」




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自分の本当の姿を知ることはとても大切。

わたしたちは、時にそれを恐れ、

過大評価してみたり、自虐的になったり。

しかしどうあがいても自分は自分でしかありません。

今世の人生を他人と変わることは出来ません。

愚僧なども、時々自分が嫌になることがあります。

肉体的な欠陥のこと、頭の悪さ、どうにもならない性格。

欠点ばかりが気になるのです。

しかし、それは本当の自分の姿ではありません。

われわれには、

それぞれの個性があり、

それぞれの才能があり、

それぞれの特徴があり、

それぞれの魂の歴史があるのです。

唯一無二の存在。

それらは他と比べてもしかたがありません。

他人に勝ったからといって、負けたからといって、

それはいかほどのものでしょうか?

自分が自分であることを抱きしめ、愛することができれば、

そこに仏の大いなる慈光は届くのです。




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2010.01.25 赤字神降臨
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社長GJ!!






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現実に目をそむけるな!










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2010.01.23 二つに一つ
所詮あらゆる哲学は、
「唯物論」か「プラトニズム」か、このどちらかに大別できます。

そして、真実は、どちらかのうち一つ。

その答えは、自明であります。




レウキッポスとデモクリトスが物質の構造に思いを巡らせたのは、
世界のこの場所、エーゲ海の岸辺であり、
ソクラテスがわれわれの表現様式の基本的問題を論じ、
プラトンがイデアとは現象の背後にある真に根源的な形態であると説いたのは、
いままさに夕陽が落ちていくあの市場でした。
2500年前にこの国で最初に系統だてて論じられた問題は、
以来片時も人の心を捉えて離さず、
新しい発展によって古い思考方法に変化がもたらされるとかならず、
繰り返し議論されてきました。
きょう、もしわたしが物質の構造と自然法則という概念に関して、
古い問題をいくつか取り上げるとするなら、
それは、今日この時代の原子物理学の発展がわれわれの自然観、
物質の構造観を根本的に変革させたからです。
古い問題のいくつかは、
ごく最近、明確で最終的な解答を手にしたと言っても、おそらく誇張ではありません。
したがって、数千年前にこの地で論じられた問題に対して、
そういった新しい、結論的な解答について話すことも許されるでしょう。
しかし、こういった問題を再考する別な理由があります。
大昔にレウキッポスとデモクリトスが発展させた唯物主義的哲学は、 
17世紀における近代科学の出現以来、多くの議論の中心的テーマになってきましたし、
それはまた弁証法的唯物論という形で、
19世紀と20世紀の政治的変化の動因の一つにもなってきました。
もし物質構造に関する哲学的概念が、
人間生活においてそれほどの役割を演ずることができたのだとすれば、
また、もしそういった概念がヨーロッパ社会において爆薬のように機能し、
ヨーロッパ以外の世界でもそのように機能するというのであれば、
今日の科学的知識にてらして、
この哲学がどうなのかを知ることは、いっそう重要なことです。
それをもっと一般的な言葉で表現するなら、
最近の科学の発展を哲学的に分析すれば、われわれがこれまで直面してきた、
基本的な問題についての相反する独断的見解が取り除かれ、
いまやこの地球上の人間生活の革命とみなしうる新しい情況に、
われわれが冷静に順応していけるだろうとわたしは考えています。
しかし、今日この時代への科学の影響という問題を抜きにしても、
古代ギリシアの哲学的議論を実験科学と現代原子物理学の発見と比較するのは、
興味深いことかもしれません。

その比較結果をここで先ばしって述べるのもなんですが、
原子という概念が現代科学においてなしとげた驚くべき成果にもかかわらず、
レウキッポスやデモクリトスよリプラトンのほうが、
物質構造の真理にずっと近づいていたようにわたしには思えます。


ケン・ウィルバー「量子の考案」




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大変勉強になりました!!








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