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人生の戦場は、多くの場合、険しい場所において戦うものである。
苦闘のないままで勝利を得ても名誉は得られず、争いがなければ得られるものもないであろう。
意志薄弱な人が困難に当たれば恐れをなしてしまうけれども、
意志強固な人が当たれば、ますます奮起して力を増すことになる。
人間が進み行かねばならない道には、必ず障害物が散らばっているものだ。
しかしながら、堅実な善行、誠実な熱意のある心、活動的で耐え抜く力、
揺るぎない意志によって、
自分を妨害する困難を乗り越え、不運に勝つことができるはずである。
苦難という学校は、国家においても、個人においても、
精神修養のためになる最善の学校である。
従って、大事業について書かれた記録で、
大きな困難や大きな苦難を伝える記録でないものはない。
たとえば、北方の国は気候が寒冷で悪く、しかも変わりやすく、
土地はもともと石ばかりで痩せていて産物が少ない。
人びとがその困難に勝とうとして精神力を注いできた様子は、
言葉で言い尽くせないほどである。
南方の温かい国の人びとには分からないであろう。
しかしながら、それによって智恵や技術が日々進歩し、素晴らしい製品を造り出し、
地球上のどんな国にも負けない人びととなることができたのである。
どんな場所でも苦難はある。
人はそれによって不幸を幸福に変え、災いを転じて福としなければならない。
苦難と戦うことで自らの力を鍛練し、智恵を増やし、勇敢さを身につけることとなるのだ。
しかしながら、経験によって分かることがある。
一般に障害というものは、それを強く掴むことによって打ち勝つことができるのだ。
それはイラクサのようである。
そっとこれを掴めば手に刺きるものであるけれども、
もし思い切って握れば、その柔らかさは絹糸のように感じるであろう。
従って、一般的に「目標と定めたことを行うなら、必ず達成できるはずである」と、
自分自身で信じて疑わないことが第一の援助となるのだ。
このようにすれば、
困難も、必ずこれに勝とうとする決意の志に恐れをなして、
自然と離れ去ってゆくものである。
多くのことは、やってみなければ成し遂げることはできない。
それなのに、志の弱い若者はまだ試してみる前にため息をついて、
「自分はこういうことをやりたいと思うけれども、
自分の力で達成できるのだろうか」などと疑うが、これはまったくいわれのないことである。
ただ心に願うだけでは、何ごとであっても成し遂げることはできない。
奮起して努力することによってこそ達成できるのである。
だから、全力を注いで試してみることは、1000回願うことに匹敵する。
疑いの心は可能性の限界を自分自身で定めて、試して努力することを妨げるものである。
リンドハースト卿はこう言った、「困難は克服されるべきものである」と。
そして、どんな困難なことであっても、
これを積極的に捉えて訓練するならば、次第に行い易く感じるようになるはずだ。
そのように反復して練習すれば、揺るぎない力が自然と生じ、
知性と品格の両方ともが完全な修養を得られるはずであり、
活発な精神、自由、気品などによって、物事に対処することができるようになるのである。
人が学んで知ったことというのは、すべて困難によって勝ち得たものである。
そして、困難に打ち勝って自分の手に入ったものがあれば、
その力を元手にまた他のことに力を注ぎ、それに打ち勝つことができるのである。
教育の中で、初めはあまり必要がないように見えても、
将来はそれが有用であると分かることもある。
たとえば、ギリシア語、ラテン語を学び、数学を学ぶようなことは、
その中から多くの知識を得ようと思うからではない。
しかし、それらの訓練によって才能が発現し精力が生まれてくるなど、
その利点をいちいち挙げて言うことはしない。
一つのことに精通すれば、二つ目のこともできるようになり、
こちらの仕事に詳しくなれば、あちらの仕事に導かれてゆくはずである。
このようにして、一生の間、困難に勝ちつつ進歩し、
生命が終わるときまで自己修養の努力を怠ってはならない。
ダランベールはあるとき、
数学の勉強内容が先に進まないことに不満をもらす一人の学生を諭して言った、
「励みなさい。君が進み続けて立ち止まらなければ、
必ずや自信と力が君のものになるだろう」と。

S・スマイルズ「自助論」




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2010.01.13 魂の挑戦
私たちは何のために生まれてきて、何のために死んでゆくのでしょうか?

この、学校では教えてくれない究極の問いに答えるにはスピリチュアルな知識が必要です。

われわれは、自ら人生設計をし自らの環境を選んでこの地上に生まれてきているのです。

それも一度だけではありません、何度も!




わたしたちが誕生前に行うプランニングは、大規模で細部にまで及んでいる。
それは人生の試練の選択を含みながらも、それを超えている。
わたしたちは両親を選ぶ(両親はわたしたちを選ぶ)。
いつ、どこに肉体を持って生まれるかも選ぶ。
通う学校や住む家、出会う人々、つきあう人々も選ぶ。
もしあなたが知り合ったばかりの人を、
「会ったことがある」と感じたことがあるならそれは本当かもしれない。
その人物はおそらくあなたの誕生前のプランニングの一部だったのだろう。
場所、名前、イメージ、言い回しなどが、
初めて見たり聞いたりしたのに、妙に親近感を感じさせるとき、
そうした親近感は、誕生前に話し合われたことの漠然とした記憶であることが多い。
わたしたちは地球の次元に入るとき、霊的世界における出自を忘れる。
肉体化する前に、自己誘導で記憶を喪失することになっていることを知っているのだ。
「ベールに覆われて」という言葉はそのような忘却の状態を指す。
わたしたちが神聖な魂としての真のアイデンティティを忘れようとするのは、
思い出すことが、より深く自分を知ることを可能にするからだ。
そうした深い自覚を得るために、
わたしたちは喜びと平和と愛の場所である非物質的な領域を去るのだ。
そこには自分自身を比べられるものがないからである。
比較対照するものがなければ、わたしたちは自分自身を深く知り得ない。
光しか存在しない世界を思い描いてもらいたい。
もし闇を経験したことがなければ、どれだけ光を理解し、評価できるだろう? 
わたしたちの本質である光をより深く理解させ、
最終的に思い出させてくれるのは、光と闇とのコントラストである。
物質的な次元は、上下、熱いと冷たい、善悪といった「二元性」の世界なので、
そのようなコントラストをわたしたちに提供する。
悲しみは、喜びをよりよく理解することを可能にする。
地球のカオスは平和への希求を高める。
わたしたちが遭遇するかもしれない憎しみは、愛の理解を深める。
もしわたしたちが人間のこうした側面を経験したことがなければ、どうして神聖さを知り得よう。

あなたは新しい場所で自らを創造することにより、自分自身を知るのだ。
なまじっかの知り方ではない。
本当の意味で自分を知るのだ。
それは故郷を離れなければ、不可能なことだった。
これが魂の求める経験である。
魂は神の火花。
人間は身体のなかの魂のエネルギーの一部だ。
人間は肉体を持っている間しか存在しない一時的な性質と、
死後、魂と再結合する不死の核から成っている。
魂は広大であり、どんな人間をもはるかに超えている。
だが、個々の人間は魂にとって欠かせない存在であり、魂はすべての人間を愛している。
大切なことに、人間には自由意思がある。
だから、人生の試練は受け入れられることもあれば、拒絶されることもある。
地球は、人間が誕生前に書いた脚本を演じるか、脚本から逸脱するかの舞台である。
わたしたちは怒りや苦々しさを持って反応するか、愛と思いやりを持って反応するかを決める。
自分が人生の試練を計画したことを認めれば、選択することがずっと容易になるのだ。
わたしたちが物質的な身体のなかにいる間、
魂は感情を通してわたしたちとコミュニケーションを行う。
喜び、平和、興奮といった感情は、愛する魂としての真の性質と調和する方法で、
わたしたちが行動したり、考えたりしていることを示す。
恐れや疑いといった感情はそうではないことを示す。
わたしたちの身体はきわめて敏感なエネルギーの受信装置(兼伝達装置)であり、
真のわたしたちと、現在わたしたちが自分を表現している方法とがマッチしているかどうかを、
感情を通してわたしたちに告げる。

本当の自分―威厳のある超越的な永遠の魂―を思い出すことが、
人生の試練を克服する一つの方法である。
例えば、自分自身を身体と定義する人は、
身体がひどいダメージを受けると、苦悩にさいなまれる。 
一方、自分自身を魂と定義する人は、
身体に同じようなダメージを受けても、はるかに苦しみは少ない。
試練は自分が魂であることを思い出させてくれるので、
最初、苦しみを引き起こした出来事そのものが、最終的に苦しみを緩和させるかもしれない。
身体から魂へのこうした自己イメージの拡張は、
苦痛を和らげるかもしれないし、和らげないかもしれない。
ただ、わたしたちの苦悩を和らげることは確実である。
そのような自覚が、人生の試練の目的であり、恩恵なのだ。
それは人生への情熱を再びかき立てる。
わたしたちがこの世に誕生する前に感じていた情熱を。
簡単に言えば、それは祝福なのだ。

受肉はわたしたちを永遠の故郷から文字どおり引き離しはしない。
故郷の非物質的な部分を見る能力を制限するだけにすぎない。
したがって死とは、
わたしたちを目に見えない領域から分け隔てていたベールが溶けることなのだ。
ワンネスや分離の概念は、
わたしたちがなぜ人生の試練を選択するのかを十分に理解するために重要なものである。
わたしたちは霊的世界にいるとき、
ほかのすべての存在と分離できない仕方でつながっていることを絶えず自覚している。
お互いに、そしてすべての被造物と一つであることを知っているのだ。
無条件の慈悲と共感がわたしたちの本当の性質である。
わたしたちはそれぞれアイデンティティを持っているが、
ほかの個人から分離しているとは知覚しない。
人間の脳は設計上、分離という幻想を知覚するようになっているので、
この基本的な概念は脳からすると矛盾している。
魂としてのわたしたちは、自分のエネルギーの一部を物質的な身体に投影するとき、
意図的に身体へと焦点を狭め、ワンネスの知覚を遮断する。
知覚の範囲を狭めることができるという事実が、
あらかじめ脚本化された役割を演じる人生のプランを立て、
お互いに試練を提供し合うことを可能にする。
自分が愛を持ってこれらの挑戦に臨むことをわたしたちは願う。
それができれば、物質的な生涯を終えたあと、
一時的にわたしたち自身の意識から覆い隠された思いやり、
共感、ワンネスをより深く理解して霊界に戻れるだろう。

真実のところは罰などなく、カルマのバランスをとりたいという欲求があるだけなのだ。
同様に、わたしたちは演じる役割を脚本化したのだから、犠牲者ではない。
誰にも責めは負わせられない。
事実、責めなど存在しないのだ。
宇宙は「悪い」ことを起こらせることによって、わたしたちを罰するようなことはしない。
カルマは重力と同じように、世界を動かす、人格を持たない中立的な法則なのだ。

わたしたちは魂として、死んでから再び生まれるまでの間に多くのことを学ぶが、
そのレッスンは、物理的次元でそれらを具体化するとき、
より深くわたしたちのなかに埋め込まれる。
霊界にいる間の学習は教室での勉強に似ている。
地上の人生は、その知識を応用し、テストし、高めるためのフィールドワークである。

わたしたちは文字どおり「愛」なのだ。
人生の試練は、わたしたちが共感、許し、忍耐、偏見のなさ、勇気、バランス、
受容、信順など多くの側面を持つ愛であることをより深く理解し、表現する機会をもたらす。
愛であるわたしたちの地上の経験は、
理解、静かさ、信仰、積極性、感謝、謙遜、そのほかの徳の形をとることもあるかもしれない。
愛は誕生前のプランニングの基本テーマである。
物質的次元に入り込むと、わたしたちは一時的に自分が愛であることを忘れる。
真の自分を思い出すとき、わたしたちの内なる光、
すなわちわたしたちの愛が、会う人すべてのために輝きだす。
それこそ、わたしたちがここにいる理由だと確信する。


ロバート・シュワルツ「苦しみを選ぶ果敢な魂」




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