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戦後日本には、宗教に対するアレルギーが根強く残っています。
しかし21世紀に入ってから、
宗教の重要性への認識が日に日に高まってきています。

宗教は、本来、すばらしいものです。
宗教は、人間の行動原理です。
宗教なくして、人は生きていくことはできないのです。




宗教のない人間など絶対に存在しない。
宗教は人間にとって最大の関心事です。
さらに言えば、宗教を持たない人間などは考えられないということになります。
私たちは、自分の能力以上のものを望んだり、
この世が与えてくれる以上のものを望んだりするという不思議な存在ですが、
何とかしてこの矛盾を、行動はともかく、
少なくとも頭からは取り除くために何かをしなくてはなりません。
あの人は「無宗教だ」というのをよく耳にすることがありますが、
それはその人が特定の教義を信じていない、というだけのことです。
自分を導く教団を持っていないというだけです。
あるいは、木製や金属製の神の像、
または心の中の像を崇拝していないというだけのことであって、
そういう人たちにも信仰心はあります。
そういう人たちは、自分にある不可解なものを、
それが何であれ自分なりの方法で押し込めているだけなのです。
その方法はたとえば、「強欲の神」への信仰であったり、「お神酒」であったりするのです。
また眠気をさそったり、気分を落ち着かせたりする方法によってということもあります。
人の信仰は、その人自身の人生を説明するものです。
この争いの多い世の中で健康的に生きるためには、
人生に何らかの説明を加えるということが絶対に必要です。

それから、死というきわめて重要な問題があります。
貧しい人には希望であり、金持ちにとっては恐怖である死、それこそが最大の問題です。
死のあるところには、宗教がなくてはなりません。
宗教は人間の弱さを示す確かなしるしということになるのかもしれませんが、
同時に私たちの尊い誕生と私たちの内にある永遠不滅のしるしでもあります。
死んでも死なないこと―これはアダムの子孫がみな、手に入れたがっていたものです。
信仰心が強いことでも知られているヘブライ人やインド人と同様に、
日本人も切望しているものです。
「千代に八千代に」生きたいと思うと、死に対する考えは二重の苦しみとなりました。
ただこの苦しみは、死ぬことによって私たちはより住みやすい世界にいざなわれるのだ、
と信じることで和らげることが出来ました。
神道では天国にある神々の住むところに、仏教では蓮の咲く天国に導かれるのです。
私たちが死を恐れていたのは、臆病だったからではありません。
この美しい国に愛着があったからです。
私たちは、運命と義務によって自分が生を受けたこの愛する土地から去るとき、
自分の身を任せるために宗教が必要だったのです。

鎌倉仏教時代の100年は、
インドの宗教が日本において新生した改革期だと言うことができます。
これほど光輝に照らされた時代はそれ以降はありませんでした。
そして私たちは今でも、当時の信念で語られた教えにすがっているのです。
そして、ここ日本でも他の地と同様、
宗教に情熱を燃やすということが迷信とともに消えてしまいました。
私たちは、宗教は非科学的だと言われることを恐れて、憶病な生き物となっているのです。
つまり、目に見えるものだけを基盤にして行動してしまうのです。
人が、今の時代ほど知識はないが誠実だった頃、
また、他人と群がっていなくても、
それぞれが独立して生きていた頃のように、行動することはあまりなくなってしまいました。
天と地は、私たちにもっと気高く行動するように、
そしてもっと大きな犠牲を払うよう求めています。
私たちは、外見だけの信仰を自慢していることを恥じなくてはなりません。
そして無知の気楽さの中にひたっていてはなりません。


内村鑑三「代表的日本人」




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