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学問とは広い言葉で、無形の学問もあり、有形の学問もある。
心学(心を修養する学問)、
神学(宗教の教義や信仰について研究する学問)、
理学(哲学)などは形のない学問である。
天文、地理、窮理学(物理学)、化学などは形のある学問である。
どれも皆、知識や見聞の領域を広め、
物事の道理をわきまえ、人間としてのつとめを知ることである。
知識・見聞を広めるためには、あるときは人の言葉を聞き、
あるときは自分でよく考え、あるときは書物も読まなくてはならない。
そのため、学問をするには文字を知ることが必要だが、
昔から世の人々が思ってきたように、
単に文字を読むだけで学問とするのは、大きな思い違いだ。
文字は学問をするための道具であって、
たとえば家を建てるのに槌や鋸がいるようなものだ。
槌や鋸は建築に欠くことのできない道具だが、
その道具の名前を知るだけで、
家を建てることを知らない者は、大工とは言えない。
まさに、こういうわけで、
文字を読むことだけを知って物事の道理をわきまえない者は、
学者とは呼べない。
いわゆる「論語読みの論語しらず」とは、すなわち、これである。
我が国の『古事記』はそらんじていても、
今日のコメの値段を知らない者は、生計の学問に暗い男と言えよう。
四書五経などの中国の古典の奥深いところをきわめていても、
商売の法を心得て正しく取引をすることができない者は、
帳簿の学問ができない人と言えよう。
数年の苦労を味わい、
多額の学費をついやして西洋の学問を身につけたけれども、
まだ独立した生計を立てられない者は、
時代の学問にうとい人である。
これらの人たちは、単に「文字の問屋」というべきだ。
その効能は、飯を食う字引でしかない。
国のためには無用の長物、経済を妨げる食客と言ってよい。
だから、生計も学問であり、帳簿のつけ方も学問であり、
時代の流れを察することもまた学問である。
どうして和漢洋の書物を読むことだけを学問という道理があろうか。


福沢諭吉「学問のすすめ」




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よく言われるように、現代はとてつもない変化を迎えようとしています。

より大きな真実に目を向けなければ、新時代を生き抜くことは難しいようです。




神を愛する最良の道は、神の創造を愛することである、と言われてきた。
私はこう見る―神性すなわち「無限定のマインド」というものがあり、
それは「神」の内なる、「絶対唯一」の内なる存在である。
だが、全創造も同様に無限定であり、それは神の外套、衣装である。
創造は同じものの外的表現であり、すべてはひとつ、全くひとつである。
子供のときでさえ、星や空を見上げたとき、私はそこに空虚な空間は見なかった。
私は歓喜を見たし、見覚めた存在を感じた。
自然と創造による、神性の存在を感じていた。
科学者として、私はこれを次のように見る。
この見方は、花の生化学の研究と矛盾しない―遺伝学にしろ、物理学にしろ、
電磁気学にしろ、量子物理学にしろ、超ひも理論にしろ、生化学、分子生物学、
解剖学、生理学にしろ、いかに信じ難いほど奇跡的で、
いかに途方もなくすべてがひとつにまとめられているかを目の当たりにすると、
それらは全部、素晴らしい、意識ある生きた「存在」の一表現であることを理解する。
このすべては神の外的な体であり、物質として、空間として、時間として、
エネルギーとして、諸相を現わし、共振し、運動している。
このように、すべての被造物は創造主へ導く門口である。
ウォルト・ホイットマンは確かにそれを知っていた。
ソローもエマーソンも知っていた。
大自然は偉大なる師である。
私たちは、無限定の「神格」の外的表現、母なる地球の子宮から出てきた。
無限定は私たちに内在し、すべてのものに内在するが、分離された別々の存在ではなく、
永遠に完全な不可分の全体として存在する。
あらゆるものが中にあり、互いに完全に繋がっている。
それは完全な量子ホログラムである。
問題はこうだ。
これらすべての経験をカプセルに包んでしまう超論題があるだろうか? 
大論題と超論題は言語を超えた一なるもの、「一体性」である。
時間、空間、物質主義を超えたこの意識状態を経験する能力があるなら、
地球の別の文化から来た人、別の惑星や別の領域から来た別の人に出合うことができ、
彼らを「他の」とは見ないで「同じ」と見る。
これは非常に重要なことである。
なぜなら、「他者」という意識は無知に根ざしているからだ。
他者、とは無明であり、一なるもの、とは悟りである。
もしあらゆる生命に目を向けることができ、彼らがちょうど私たちと同じように目覚め、
意識をもっていることがわかったら、彼らとひとつであることを経験できる。
いかに彼らの知性、身体、感情の音色、
あるいは知識の蓄積が異なっていても、これは真実である。
私たちがふつう焦点を合わせているものは、ほんのはかない現象に対してである。
彼らは目覚めており、
「無限定のマインド」の超越的価値がわかるあの意識状態を経験しているのだ、
という事実に私たちが目を向けるなら、
彼らを「エイリアン」とか「他の」とは見ないだろう。
これはジンバブエから来た人、サウジアラビアから来た人、
ケンタウルス座アルファ星から来た人と話すときにも同じことが言える。
それは全く問題ではない。
彼らは、みなもうひとりの、知覚力をもった意識的存在である。
私たち自身の宇宙的な側面である知覚を、その存在もまた本質の中に折り畳んでいる。
もし、ひとつである状態を経験できるなら、まず第一に、彼らとコミュニケートできる。
第二に、何も恐れることはないと感じるだろう。
第三に、争いを引き起こす問題は何もないということを知るだろう。
というのは、本質的で重要な相異が本当にないからだ。
地球上のあらゆる宗教の設立者を一堂に集めることができたなら、
おそらく彼らの間には何の相異もなく、古き良き時代を共有するだろう。
分離は人間がつくる。
自己本位、物質主義、盲目的愛国心、無知、憎悪、愚鈍から分離が生じ、
もろもろの問題を惹き起こしているのだ。
一体性の経験は、今日の世界における不可欠な経験である。
目覚めた状態についての私の個人的経験から引き出した超論題は、
一体性に関する論題である。
これは今後五十万年の超論題であり、ひとつであることの意識レベルは進化してゆく。
その進化から完全な調和、平和、悟りが実現する。
この傾向は私たちの周りにいくらでも観察できる。
世界はより統合され、相互の関わりはますます深くなっている。
地球外文明の問題に対する大いなる挑戦のひとつは、
意識ある存在でありながら人間ではない生命と平和な関係をつくるには、
人類が宇宙的にどのレベルまでひとつにならなければならないか、という問題である。
私たちは宇宙時代に生きており、人間は宇宙へ進出しはじめ、
地球外文明が地球にやって来ている事実にも目覚めはじめている。
人類はひとつであるという単純な一体意識では充分ではない。
地球レベルでの一体感を超越し、マインドの宇宙的側面を理解するレベルまで進むべきである。
意識した心、知覚それ自体、そのことが宇宙的単一性であり、
別の惑星から来た生命形態の中にある目覚めは、私たちの中にあるそれと同じである。
たとえ私たちの知性、身体、知識の蓄積が彼らのとは異なろうとも、
こういった相異は本質的なものではない。
ならば、当然、宇宙的霊性の必要性に触れるべきであろう。
この時代は単に世界平和を確立する必要があるだけでなく、宇宙的平和の確立も重要である。
そういった平和は霊の宇宙的本質と、
意識あるマインドの宇宙的本質を認めることを通してのみ、十全に実現できる。
さもないと「人類は全員がひとつであり、人間は平和を保っているが、
地球の外にはさまざまな他者がいる。彼らをどうしようか?」ということになる。
本当のところこれらの生命形態は、意識をもち、
ひとりひとりの人間の中で輝いている内的目覚めの状態と同じく、彼らも目覚めている。
相違は全くない。
この事実を知ると、一切の恐怖が取り除かれる。
あの意識状態に入ることができれば、あなたは永遠不滅の状態にいる。
なぜなら、その状態は時間的制約の外にあるためだ。
そして無限である。
なぜなら、空間によって限定されていないからだ。
だから、あの意識状態が世界平和と宇宙平和を確立し得る最も安全な道である。
今日の世界における基本的挑戦が、霊的な問題であるのはこのためだ。

私の人生の初期における好ましい事柄のひとつは、
正規の教育を少ししか受けていなくても、また指示を与えてくれる人がいなくても、
個人は真理や真実を学び、啓示を受けられる、ということを経験的に知り得たことである。
科学者の頑なな正論は、宗教の頑なな正論に勝るとも劣らない。
現代の科学者は、新しい高僧の座を占めるに至った。
覚えておくといい、科学者はまず初めに人間であり、しかる後に科学者なのである。
したがって彼らとて、人間のすべての欠点、弱点を併せもっている。
ハーヴァードの教授が博士号をもっているからといって、
聖職者が陥るかもしれない出世欲や独善性の罠にはまらないとはかぎらない。
彼らもまた真理を追求する代わりに、
教え込まれた信条体系において狂信的、独断的になり得る。
今日の世界で私たちが直面している問題の多くは、
彼らが霊的問題、宗教、科学、政治、経済のいずれにしろ、
真理とは無関係な何らかの展望をもちつづけていることである。
人々は、自分の信条体系と繋がりのある展望をもち、
時代遅れの何かに耽溺し、それを手放すことができないのだ。
科学者については、これは確かに真実をついている。
彼らの信条体系に不適合であるという理由で、
伝統的な学会が飛躍的な大発見をいかに拒絶してきたか、枚挙にいとまがない。
だから私は人々に言っている、「信条は少なめに、信念はふんだんに」と。
あなたは無限の信念をもつことができるが、
個人のもつ特定の信条は最小限度にしておく必要がある。
そうでないと、科学上だろうと宗教上だろうと、教条による洗脳の罠に陥ってしまう。
そして人々は、教条に対して狂信的になり、独善的に執着する。 
そうなったとたん、真理の探求は停止してしまう。
人間にとって必要なのは、真の謙虚さと宇宙的霊性である。
真理を見つけたいという気持ちをもたなければならない。
開かれた次なるドアが、従来の確信や信条を撤回するなら、そうさせることだ。
あなたが物理学者であれ科学者であれ、あるいは霊的仕事をしている人であれ、
経済学者であれ、ひとつの概念に捉われた考え方は―真実を知りたいという思いに、
しっかりと焦点が絞られていないから―真実の探求において妨害となる。

科学者サークルや宗教者サークルの高僧たちの罠を避ける唯一の道は、
真理を見出すのに充分な真の熱意をもち、思い切ってあなたの評価を刷新することである。
地球上のあらゆる霊的伝統の中心的な教えを研究すると、
そのどれもが同じ意見だ―神の存在、許しと愛の本質、そしてより大きな霊的テーマ。
これらはすべて宇宙的である。
相違するところは、ある社会と別の社会との、教え方の違いと文化的傾向の違いだが、
こういったことは全く一時的であり、それぞれの霊的伝統とともに変化していき、
いずれにせよあまり重要なことではない。
ある分野では、あなたは大変な伝統派かもしれないし、
それであなたがうまくいくならそれでいい。
しかし、それが霊的伝統の全知識の初めであり終わりである、などと考えてはならない。
そうではない。
持続するものの範疇に入れていいことは、非常に少しにかぎられており、
それは不動の真理のみである。
その他のほとんどは、査定と進化の段階にあると見るべきだだが、
私たちはそうするように訓練されてはいない。
宗教的にしろ科学的にしろ、私たちの教育システムは、堅い頭を創るように設計されており、
そうしたやり方では、狂信者を生み出してしまう。
それは次に、そのような観念構造から利益を得る人たちが、
どんな犠牲を払ってでも保護しようとする世襲制となる。
科学分野では確かにその通りであり、どれほど証拠を突きつけても、
「これは真実ではあり得ない」とのたまう人たちがいるのだ。


スティーブン・グリア「UFOテクノロジー隠蔽工作」




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この教えで中国の民主化を!






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