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2010.06.08 仏教の秘密
仏教の真髄は、隠されたところ(オカルト)にある。

真偽のほどは別にして、神秘学徒にとっては興味深い記述です。




語源学ではアーディとアディ・ブダ(Adhi-Budha)、
つまり「唯一のもの」(または最初のもの)と、「至高の叡智」とは、
アーリヤーサンガ(無着)が秘教的な論文の中で用いている言葉であるが、
今は大乗仏教の神秘家のすべてに用いられている。
それはサンスクリット語で、初期のアーリア人達が未知の神につけた名称である。
「ブラフマー」という言葉は、『ヴェーダ』やその他の古い作品には見当たらない。
それは絶対的智慧という意味で、アーディ・ブータ(Adi bhata)は、
「すべての世界の創造されていない最初の原因」と訳されている。
ブッダ、つまり仏陀という名称がいわば人間にあてはめられる言葉となり、
遂にはその並ぶもののない徳のおかげで、
「不動の智慧の仏陀」の称号を受けた方につけられるまでには、
測り知れぬほど、長い時代を経たに違いない。
ボーダ(Bodha)は、生まれながらに神聖な知性または理解力をもっていることである。
ブッダ(Buddha)は個人的努力と功績により、それを得ることである。
ブッディ(Buddhi)は「自我」にとどく神聖な知識のチャンネルを認識する機能即ち、
善悪を識別する能力である洞察力であり、「神聖な良心」でもある。
また、「霊的魂」としてアートマの媒体である。
「ブッディが私達の自己本位をあらゆる変形(ヴィカーラ)と一緒に吸収し破壊すると、
観自在、つまリアヴァローキテーシュヴァラが私達に顕現され、
涅槃またはムクティに到達する」。
「ムクティ」とは、涅槃と同じことであり、「マーヤー」即ち幻影の拘束からの解放である。
ボーディとは行者が霊的意識の絶項に達する三昧、
則ち恍惚状態の特別なものの名称でもある。

単にその名称が一神教徒の自分達にとって、有害な教えをほのめかしているからと言って、
仏教への盲目的で、しかもこの時代にとってたいへん不適当な憎しみ、
またその反動による「ブディズム」(Budhism)への憎しみで、
その秘教的な教え(それはバラモンの教えでもある)を否定する人々は賢明ではない。
「賢明ではない」という言葉こそ、彼等の精神状態をよく描写するものである。
なぜなら、粗野で非論理的な唯物主義を信じるこの時代に、
人間が最も大切にし、神聖視するすべてのものが、しきりに攻撃されているが、
秘教哲学だけがそうした攻撃に耐え抜くことができるからである。
本当の哲学者つまり、秘教的な智慧の学徒は、
人格、独断的信仰、特別な宗派を全く忘れている。
その上、秘教哲学はあらゆる宗派を調停し、その外部の人間的装いを一枚一枚はぎとり、
それぞれの宗教の根源は、他の大宗教と同じであることを示している。
秘教哲学は、自然界には絶対的神聖な原則があることを立証している。
そして敢えて太陽を否定しないように、神を否定しない。
秘教哲学は自然界の中の神を否定しないし、
絶対的、抽象的存在としての神も決して否定しない。
ただ、所謂、一神教的宗教の神々、人間が自分のイメージや姿に似せて作った神々、
つまり永遠なる不可知なものの冒瀆的で下手な戯画を受け入れるのを拒むだけである。
その上、読者の前に提出しようとしている記録は、
私達人類の始まりからの全世界についての秘教的教義を含んでおり、
仏教的オカルティズムは、
その中での正当な位置を占めているだけであって、それ以上のものではない。

実は、ゴータマの形而上学のダン(Dan)または、
ジャンナ(Janna)(ディヤーナ)(瞑想と知識によって自分の我を改善すること、
つまり第二の内的誕生)の秘密部分は、
古代の智慧の宗教の教義をよく知らない人にとっては壮大に見えるが、
全体のごく小部分にしかすぎない。
ヒンズー教の改革者であるゴータマは、大衆への自分の教えを、
智慧の宗教の純粋に道徳的、生理学的な面、つまり、倫理と人間にだけ限定してしまった。
「目に見えず、無形のもの」、私達のこの世の領域外にある存在の神秘には、
この偉大な師匠は、大衆への講話では全く触れることなく、
阿羅漢達の選ばれたサークルのために、秘められた真理を守られたのである。
阿羅漢達はウェーバーラ山の近くの有名なサプタパルナ洞窟で、
イニシエーションを受けたのである。
この洞窟はマガダ国の古い首都ラージャグリハにあった。
また、ある考古学者達は法顕のチェタ洞窟であると考えている。

改宗という仕事が行われて行く間に、阿羅漢達の秘密で神聖なサークルから、
インドよりも形而上学の概念の用意の少ない土壌、
つまり、支那や日本やシャムやビルマに一たび秘教の教えが移植されると、
時と人間の想像とが、こうした教えの清浄さと哲学的一貫性を殺してしまったのである。
これら壮大な昔ながらの清浄な教えがどのように扱われたかは、
近代的な装いをこらした仏教の、所謂昔の「密教」諸派のいくつかを研究すると分かるだろう。
そうした、いわば「密教」は、支那や一般に他の仏教国だけではなく、
イニシエーションを受けてないラマ僧や、
蒙古の「宗教改革者」の手の中に委ねられたままであるチベットの沢山な宗派にさえもある。
そんなわけで、読者は仏陀ゴータマの公けの教え即ちオーソドックスなブッディズムと、
彼の秘教ブディズムとの極めて重大な違いを覚えておいてほしい。

ゴータマの秘密の教えは、
当時のイニシエーションを受けたバラモン達の教えと全く違ってはいない。
仏陀はアーリア土壌で生まれた人であり、生粋のインド人でクシャトリヤであって、
「二度生まれ」(イニシエーションを受けたバラモン)、
つまりドヴィジャー(Dviia)の弟子であった。
従って、彼の教えがバラモンの教えと違うことはあり得ない。
なぜなら、仏教という改革は、
寺院のイニシエート達や苦行者達の「魔法の」サークル以外の、
すべての人達に秘密にされていた教えの一部を、
公表することであったにすぎなかったからである。
仏陀は、本当の秘教的知識の原理の上に打ちたてられた哲学を教えたが、
誓いを立てたたため、教えられたすべてを教えることができず、
世間には外部的な物質的な体系だけを教え、
自分の選んだ弟子達のために、その真髄を保管されたのである。
東洋学者中、中国の多くの学者達は「魂の教え」について聞いていた。
誰もその本当の意味と重要性を理解したとは思えない。
その教えは秘密に、おそらくあまりにも秘密に、至聖所の中に保管されていた。
その主な教条と、目標即ち涅槃とを包み隠していた神秘は、
それを学んだ学者達の好奇心を大いにそそり、刺激したが、
彼等はその難問のもつれを解き、論理的に心ゆくまで解決することはできず、
結局、涅槃は絶対無という意味であると宣言して、それを切り抜けたのである。


H・P・ブラヴァツキー「シークレット・ドクトリン」




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