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西洋では、無神論者や唯物論者は少数なため、
比較的、仏教も正しく理解されているようです。

仏教国の日本人よりも、欧米仏教徒の方が、その真髄を捉えているとは情けないことです。




仏教によると、苦しみと不満の原因ばかりか、
再生(六道輪廻)の原因も無知と貧欲とされる。
噛み砕いて言えば、私たちは自分の「真の本質」を知らずに、
自己と宇宙について、間違った考えにしがみついているということになる。
いちばん問題なのは、
「私たちが自分の考えを固く信じ込んでいる」ことだ―それは自分自身についても、
いわゆる客観的現象についても、いや、何についてもそうなのだ! 
私たちは、自分なりの事象の解釈を事象自体の本質とさえ思い込んでいる。
哲学ではこれは「物象化」と呼ばれる。
要するに「抽象概念を具体的な事物に変えること」で、
仏教徒の目から見れば、私たちは生の体験から固定慨念をつくり出す場合、
常にこうした転換を行なっていることになる。
これは夢のうちに生きると呼ばれ、
十全な悟りを開いた人を除けば、
誰もがやはりある程度まで迷妄のうちに生きるということだ。
禅宗でも重要な経典『般若心経』にあるように、
名目と形態(物質的存在と観念)は、
どちらも実は、確かたる自性(独自の本質)のない空である、と仏陀は説いた。
要するに、一切の物質的存在は空のうちにあるがままにあり、
私たちが名づけるとおりに存在するのではないということだ。
私たちの定義づけは、
合意で成り立つこの「地上世界の現実」ではたしかに価値があるが、
その霊的なパワーは限られている。
言い換えるなら、自分を知るためには、
自分を忘れなければならないということなので、
自己を徹底的に拡大させてみることでしか「自己救済」はできない。
同じように、
(仏の四十八願)一切衆生の救済が成就するには、すでに救済されていると悟ることだ。
言うまでもなく、こうした教えは、
いずれも仏教の無我の根本義から出てくることで、
私たちのありのままの姿、すなわち実相は、
どんな二元論的な概念でもつかめないということだ。
「愛だけでは十分ではない」のだ。
誤った見方、
仏教徒が「執着」と呼ぶもの(私たちが抱きつづける迷妄)を捨てようとするなら、
智慧も必要だ。
西洋の形而上学は別の見方を用意する。
西洋哲学では、「無我」や「空」は出てこないが、
基本的には同じことを、ごくおなじみのことばで言っているのだ。
こうした思想体系では、苦しみと無知の根本原因は、
人格(身体―感情―精神)の習慣化したパターンとの自己同一視にあるとされ、
そのせいで万物と一体の高次自我(霊魂)、
私たちの核心にある存在と連携しそこなうことになる。
あらゆる遊離感は、
私たちの核心にある存在と一体となっていないことにともなって生じるものなのだ。
進化の目的は「全一者(神)の理法」をゆがめるものを、
ことごとく取り除くこと―すなわち、意識にとどまる障害物を片付けて、
無限性を十二分に実感することだ。
煎じ詰めれば、
全一性を実感するとは、無我と空と同じことで、
究極の目標は、意識が清澄になって、十全な宇宙への覚醒に至ることだ。
「悟り」のうちにさしあたって、
いちばん肝心なのは、聡明な無限性への導入となることだ。


スコット・マンデルカー




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