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2008.12.28
宇宙時代の常識
先月の文藝春秋にも出ていた立花隆氏の代表作「宇宙からの帰還」では、
宇宙飛行士ミッチェル氏へのインタビューが白眉です。
発刊当時(1983年)はトンデモだと思われたのですが、今読むとピンと来ます。
「超能力を扱うには、まず、それにふさわしい精神の安定と感性の安定を得ることが必要だ。
心の中からあらゆる日常的世俗的雑念を払いのけ、
さざ波一つない森の中の静かな沼の水面のように、心を静寂そのものに保ち、
透明な安らぎを得なければならない。
精神を完全に浄化するのだ。
精神を完全に浄化すれば、とぎすまされた鋭敏な感受性を保ちながら、
それが外界からいささかも乱されることがないという状態に入ることができる。
仏教でいうニルヴァーナだ。
そこまでいけば、人間が物質的存在ではなく精神的存在であることが自然にわかる。
人間は物質レベルでは個別的存在だが、精神レベルでは互いに結合されている。
ESPの成立根拠はそこにある。
さらに進めば、人間のみならず、世界のすべてが精神的には一体であることがわかるだろう。
超能力現象は、このスピリチュアル・ワンネスの証明なのだ。
スピリチュアル・ワンネスがあるから、スピリチュアルになりきった人間は、
物理的手段によらず外界とコミュニケイトできる。
古代インドのウパニシャドに、『神は鉱物の中では眠り、
植物の中では目ざめ、動物の中では歩き、人間の中では思惟する』とある。
万物の中に神がいる。だから万物はスピリチュアルには一体なのだ。
しかし、神の覚醒度は万物において異なる。
だから、万物の一体性はなかなか把握できない。
眠れる神をも見ることができるだけスピリチュアルになることができた人間にしてはじめて、
この一体性を把握できる。
そして、充分にスピリチュアルになりえた人間には、超能力がおのずから生まれる。
イエスのことばに、
『まず神の国を求めよ。そうすれば、すべてはそれにともなって与えられる』とある。
まず超能力を求めてはいけない。まず、神の国を求めるべきなのだ。
超能力とは、より大きな精神世界の一部であると知るべきだ。」
「宗教の側には部分的真理という以上の問題がある。
それは教団として組織化されることから生じた、真理の道の踏み外しだ。
すべての宗教は偉大なスピリチュアルな真理をつかんだ指導者の教えにはじまる。
しかし、信者は、その教えの本質を充分には理解しない。
各宗教の教祖となったような人々は、イエスにしても、ブッダにしても、モーゼにしても、
モハメッドにしても、あるいはゾロアスターや老子にしても、
みな人間の自意識の束縛から脱して、
この世界のスピリチュアル・ワンネスにふれた人々なのだ。
だから、彼らはみな同時に超能力者でもあった。
彼らはみな奇蹟を起こした。
奇蹟というのは超能力現象の別の表現だ。
しかし、その教えを受けて、追随した人々のほうは、
自意識の束縛から逃れきれていないために、
教えられた真理をそこまでの深みにおいて把握していない。
だから、指導者が世を去ると、信者集団はスピリチュアルな真理から、
人間的自意識の側に引き戻されてしまう。
そして教団が組織され、教団全体としてますます原初の真理から離れていくことになる。
教団化された既成宗教はどれをとっても、いまや真のリアリティ、
スピリチュアルなリアリティから離れてしまっている。
私がいう宗教的真理というのは、教団教義のことではない。」
「神とは宇宙霊魂あるいは宇宙精神であるといってもよい。
宇宙知性といってもよい。それは一つの大いなる思惟である。
その思惟に従って進行しているプロセスがこの世界である。
人間の意識はその思性の一つのスペクトラムにすぎない。
宇宙の本質は、物質ではなく霊的知性なのだ。この本質が神だ。」
「人間というのは、自意識を持ったエゴと、普遍的霊的存在の結合体だ。
前者に意識がとらわれていると、人間はちょっと上等にできた動物にすぎず、
本質的には肉と骨で構成されている物質ということになろう。
そして、人間はあらゆる意味で有限で、宇宙に対しては無意味な存在ということになろう。
しかし、エゴに閉じ込められていた自意識が開かれ、後者の存在を認識すれば、
人間には無限のポテンシャルがあるということがわかる。
人間は限界があると思っているから限界があるのであり、
与えられた環境に従属せざるをえないと思っているから従属しているのである。
スピリチュアルな本質を認識すれば、無限のポテンシャルを現実化し、
あらゆる環境与件をのりこえていくことができる。
人が死ぬとき、前者は疑いもなく死ぬ。消滅する。人間的エゴは死ぬのだ。
しかし、後者は残り、そのもともとの出所である普遍的スピリットと合体する。
神と一体になるのだ。後者にとっては、肉体は一時的な住み処であったにすぎない。
だから、死は一つの部屋から出て別の部屋に入っていくというくらいの意味しかない。
人間の本質は後者だから、人間は不滅なのだ。
キリスト教で人が死んで永遠の生命に入るというのも、
仏教で、死して涅槃に入るというのも、このことを意味しているのだろう。
だから、私は死を全く恐れていない。」
「宗教はすべて、
この宇宙のスピリチュアルな本質との一体感を経験するという神秘体験を持った人間が、
それぞれにそれを表現することによって生まれたものだ。
その原初的体験は本質的には同じものだと思う。
しかし、それを表現する段になると、その時代、地域、文化の限定を受けてしまう。
しかし、あらゆる真の宗教体験が本質的には同じだということは、
その体験の記述自体をよく読んでいくとわかる。
宗教だけに限定する必要はない。
哲学にしても同じことだ。
真にスピリチュアルな体験の上にうちたてられた哲学は、やはり質的には同じものなのだ。」
「進化の方向ははっきりしている。
人間の意識がスピリチュアルに、より拡大する方向にだ。
つまり、イエスとか、ブッダとか、モハメッドとかは、
早くからこの進化の方向を人類に指し示していた先導者なのだ。
どんな進化でも、種全体が大きく変る前から、
進化の方向を先取りして示す個体があるのと同じことだ。」
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宇宙飛行士ミッチェル氏へのインタビューが白眉です。
発刊当時(1983年)はトンデモだと思われたのですが、今読むとピンと来ます。
「超能力を扱うには、まず、それにふさわしい精神の安定と感性の安定を得ることが必要だ。
心の中からあらゆる日常的世俗的雑念を払いのけ、
さざ波一つない森の中の静かな沼の水面のように、心を静寂そのものに保ち、
透明な安らぎを得なければならない。
精神を完全に浄化するのだ。
精神を完全に浄化すれば、とぎすまされた鋭敏な感受性を保ちながら、
それが外界からいささかも乱されることがないという状態に入ることができる。
仏教でいうニルヴァーナだ。
そこまでいけば、人間が物質的存在ではなく精神的存在であることが自然にわかる。
人間は物質レベルでは個別的存在だが、精神レベルでは互いに結合されている。
ESPの成立根拠はそこにある。
さらに進めば、人間のみならず、世界のすべてが精神的には一体であることがわかるだろう。
超能力現象は、このスピリチュアル・ワンネスの証明なのだ。
スピリチュアル・ワンネスがあるから、スピリチュアルになりきった人間は、
物理的手段によらず外界とコミュニケイトできる。
古代インドのウパニシャドに、『神は鉱物の中では眠り、
植物の中では目ざめ、動物の中では歩き、人間の中では思惟する』とある。
万物の中に神がいる。だから万物はスピリチュアルには一体なのだ。
しかし、神の覚醒度は万物において異なる。
だから、万物の一体性はなかなか把握できない。
眠れる神をも見ることができるだけスピリチュアルになることができた人間にしてはじめて、
この一体性を把握できる。
そして、充分にスピリチュアルになりえた人間には、超能力がおのずから生まれる。
イエスのことばに、
『まず神の国を求めよ。そうすれば、すべてはそれにともなって与えられる』とある。
まず超能力を求めてはいけない。まず、神の国を求めるべきなのだ。
超能力とは、より大きな精神世界の一部であると知るべきだ。」
「宗教の側には部分的真理という以上の問題がある。
それは教団として組織化されることから生じた、真理の道の踏み外しだ。
すべての宗教は偉大なスピリチュアルな真理をつかんだ指導者の教えにはじまる。
しかし、信者は、その教えの本質を充分には理解しない。
各宗教の教祖となったような人々は、イエスにしても、ブッダにしても、モーゼにしても、
モハメッドにしても、あるいはゾロアスターや老子にしても、
みな人間の自意識の束縛から脱して、
この世界のスピリチュアル・ワンネスにふれた人々なのだ。
だから、彼らはみな同時に超能力者でもあった。
彼らはみな奇蹟を起こした。
奇蹟というのは超能力現象の別の表現だ。
しかし、その教えを受けて、追随した人々のほうは、
自意識の束縛から逃れきれていないために、
教えられた真理をそこまでの深みにおいて把握していない。
だから、指導者が世を去ると、信者集団はスピリチュアルな真理から、
人間的自意識の側に引き戻されてしまう。
そして教団が組織され、教団全体としてますます原初の真理から離れていくことになる。
教団化された既成宗教はどれをとっても、いまや真のリアリティ、
スピリチュアルなリアリティから離れてしまっている。
私がいう宗教的真理というのは、教団教義のことではない。」
「神とは宇宙霊魂あるいは宇宙精神であるといってもよい。
宇宙知性といってもよい。それは一つの大いなる思惟である。
その思惟に従って進行しているプロセスがこの世界である。
人間の意識はその思性の一つのスペクトラムにすぎない。
宇宙の本質は、物質ではなく霊的知性なのだ。この本質が神だ。」
「人間というのは、自意識を持ったエゴと、普遍的霊的存在の結合体だ。
前者に意識がとらわれていると、人間はちょっと上等にできた動物にすぎず、
本質的には肉と骨で構成されている物質ということになろう。
そして、人間はあらゆる意味で有限で、宇宙に対しては無意味な存在ということになろう。
しかし、エゴに閉じ込められていた自意識が開かれ、後者の存在を認識すれば、
人間には無限のポテンシャルがあるということがわかる。
人間は限界があると思っているから限界があるのであり、
与えられた環境に従属せざるをえないと思っているから従属しているのである。
スピリチュアルな本質を認識すれば、無限のポテンシャルを現実化し、
あらゆる環境与件をのりこえていくことができる。
人が死ぬとき、前者は疑いもなく死ぬ。消滅する。人間的エゴは死ぬのだ。
しかし、後者は残り、そのもともとの出所である普遍的スピリットと合体する。
神と一体になるのだ。後者にとっては、肉体は一時的な住み処であったにすぎない。
だから、死は一つの部屋から出て別の部屋に入っていくというくらいの意味しかない。
人間の本質は後者だから、人間は不滅なのだ。
キリスト教で人が死んで永遠の生命に入るというのも、
仏教で、死して涅槃に入るというのも、このことを意味しているのだろう。
だから、私は死を全く恐れていない。」
「宗教はすべて、
この宇宙のスピリチュアルな本質との一体感を経験するという神秘体験を持った人間が、
それぞれにそれを表現することによって生まれたものだ。
その原初的体験は本質的には同じものだと思う。
しかし、それを表現する段になると、その時代、地域、文化の限定を受けてしまう。
しかし、あらゆる真の宗教体験が本質的には同じだということは、
その体験の記述自体をよく読んでいくとわかる。
宗教だけに限定する必要はない。
哲学にしても同じことだ。
真にスピリチュアルな体験の上にうちたてられた哲学は、やはり質的には同じものなのだ。」
「進化の方向ははっきりしている。
人間の意識がスピリチュアルに、より拡大する方向にだ。
つまり、イエスとか、ブッダとか、モハメッドとかは、
早くからこの進化の方向を人類に指し示していた先導者なのだ。
どんな進化でも、種全体が大きく変る前から、
進化の方向を先取りして示す個体があるのと同じことだ。」



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