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信仰こそは人間の希望です。

神無き時代を生きる現代人の絶望は深刻です。

無神論者の背中は何と孤独で悲しみが漂っていることでしょう。




ニーチェは『ツァラトゥーストラはかく語った』において、
神に取って替わるであろう超人の誕生を宣言した。
新しい啓蒙された人間は、古いキリスト教的諸価値に対する戦争を宣言し、
鳥合の衆の卑しい習俗を踏み躙り、
愛とか憐れみとかという弱々しいキリスト教的価値の一つをも持たない、
新しい力強い人類の先駆けとなるであろう。
今や神が死んでしまったので、
この世界が、最高の価値として神の座に取って替わるであろう。
ニーチェは教えていた。
キリスト教の神は哀れむべきもの、不条理なものであり、「生命に対する犯罪である」と。
その神は、人々が自分の体、自分の情熱、自分のセクシュアリティを恐れるように勧め、
われわれをひよわな者にする憐憫という「女々しい」道徳を促してきた。
究極的な意味や価値などは存在しないのであり、
人生の諸問題への代替物として「神」と呼ばれる放縦で偽りの万能薬を提供する、
などということは間違っていたのである。

ジグムント・フロイトは確かに、
神への信仰を成熟した人間ならば廃棄すべきである幻想と見なした。
神の理念は偽りではなかったが、
心理学によって解読される必要がある無意識の考案物であった。
人格神は高揚された父親像にすぎなかったのだ。
そのような神への希求は、強力で保護的な父親への、
また正義や公平さや永遠に続く生命への幼児的憧れに発したものである。
神は単に、これらの願望が投影されたものにすぎず、
永続的な絶望感から人間が恐れ礼拝するものにすぎない。
宗教は人類の幼児期に属するものであり、
幼児期から成熟さへの移行期に必要とされる一段階であった。
それは社会にとって不可欠の倫理的価値を促進してきた。
だが今や人類は成人に達したのであるから、それは過去のものにならねばならないのだ。
新しいロゴスである科学こそが、神の場に取って替わることができるのだ。
それは道徳性のための新しい基礎を提供できるし、
われわれが自らの恐れに直面するのを助けることができるであろう。
フロイトは、科学への彼の信仰をすこぶる強調した。
それはその激しさにおいてはほとんど宗教的であるようにさえ思えた。

C・G・ユングの神は神秘主義者の神と似ているものであり、
各人によって主観的に経験される心理学的な真理であった。
有名な「対面インタビュー」でジョン・フリーマンに神を信じるかどうかと質問されたとき、
ユングは強調して答えた。
「信じる必要などない、わたしは知っているのだ!」と。
ユングが神を信頼し続けたということは、
自己の深みにおいて存在の根底と神秘的に同一化された主観的な神は、
より人格的な神人同形論的な神―それは実に永遠の未成熟を促しうるのだ―には、
できない仕方で精神分析的な科学に直面してもなお生き残れるのだということを暗示している。

他の多くの西洋人と同様に、
フロイトはこの内面化された主観的な神に気がついていなかったように思われる。
それにもかかわらず、彼が宗教を廃棄しようとすることは危険であろうと主張したとき、
それは妥当な洞察力ある指摘だったのである。
神を廃棄しようと欲した無神論者のある者は、確かにストレスの徴候を示していた。

ニーチェは心優しい孤独な人で、病弱に悩まさせられた。
彼の「超人」とはまさに違っていたのだ。
最後には狂気に冒されてしまった。
彼は、彼の散文のエクスタシーがわれわれに想像させるかもしれないように、
喜ばしく神を捨てたのではなかった。
「多くの震えとおののきと苦渋の後に」生まれた詩のなかで、
ツァラトゥーストラをして、彼は神に戻ってくれるように訴えさせている。

汝のすべての苦痛ともども
おお、帰り来よ
なべての孤独の最後のものへと!
わが涙のすべての流れは
汝のために流れたるなり!
しかしてわが心の最後の炎は
汝に向かいて燃ゆるなり!
おお、帰り来よ!
わが知られざる神よ! わが苦痛よ! わが最後の幸せよ!


カレン・アームストロング「神の歴史」




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