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2009.01.08 真理を求めて
イギリスの著名な宗教学者であるカレン・アームストロング氏は、
7年間のカトリック教会修道女としての経験を持っています。

彼女は、修道会の命でオックスフォード大学に赴くことになるのですが、
そこでの学問探求の過程で、教会教義に疑問を感じ、教団を離れることになります。

しかし、その後も、比較宗教研究を通じての「神」の探求は続けられます。

彼女は、あらゆる宗教教団に見られる「原理主義」に気づいてこう指摘します。

「宗教的な人は、自分たちだけが真理を知っていると考えるのを好みます。
しかし、これは利己主義であり、自我を放棄することを教える真の宗教とは関係がありません。」

彼女は、原理主義と戦い、欧米世界とイスラム世界との対話を促進する目的で、
アナン前国連事務総長によって発案された、
「文明間の同盟」の指導的グループの一人となっています。

彼女の宗教的態度、信仰の表明は、極めて興味深いものがあります。




17歳の少女は希望に胸をふくらませ、
言葉では語り尽くせない究極的なあるものを探しに修道院の門をくぐった。
その時、私はいつの日かそれを見つけられると確く信じていた。
あの究極的なあるものは、修道院では見つからなかった。
それは、他に適当な言葉がないので、『GOD(神)』と呼んでいる。

1960年代は修道会にとって難しい時代だった。
当時は不幸にも、若い修道女たちの過ちを耐えがたいほど意識させることで、
彼女たちを修練する慣習が続けられていた。
このような修練方法の下で、私たちは、
常に深刻な不安や自己に対する否定的な思い込みをもって日々暮らしていたので、
肯定的な宗教的経験をほとんどもつことができなかった。
真の悟りへの道とは自己をエゴからの解放へと導くものであると解脱者は強く説いている。
罪意識や、自分自身の行ないへの過度な意識の集中は、
さらなる自己―この自己こそ超越されるべきもの―のうちで、
魂はあがき苦しむことになるだけなのだ。

(修道院を離れてからの)私は聖書学、神学、
そして教会の歴史についてのしっかりとした基礎づくりに着手した。
もちろんこれらの学問は修道院で習得していたのだが、
今度はキリスト教におけるこれらの学問を他の宗教との発展に関連づけて理解しようとした。
初めのうち、私の新しい宗教への取り組みは知的で批判的なレベルにとどまっていた。
ところが宗教の歴史により深く踏み入っていくにつれて、かつて私を修道院へと駆りたて、
7年間ものあいだ私をそこに留まらせ続けた、あの探究心が湧きあがってきた。
もちろんそれは当時とは違ったものだった。
なぜならば私は年齢をとっていたし―そうあることを期待しているのだが―、
今ではもっと賢明な人間になっていたからだ。
私は神秘主義の研究に引き込まれていったが、
修道院での日々の瞑想のあいだには一度も神秘体験を経験したことはなかった。
しかし時として、
研究に打ち込んでいるとき―自宅の机の上であるいは英国図書館の机の上でも―、
かすかに輝く、神の超越性としか表現しえない何かを経験することがある。
それはほんの一秒の何分の一かの、ごくごく一瞬の出来事ではあるが、
しかしその一瞬の中に、人生にはある究極的な意味と価値があるのだ、
という感覚を与えてくれるのだ。
そしてその感覚は崇高な音楽や霊感を与えられる詩の中に同じように感じとられるものなのだ。
なぜ芸術や音楽がこのような力をもっているのかを説明できないのと同じように、
そのあるものの特徴を記述する方法はない。
それはある神託や教義の中に要約することは不可能なものなのだ。
私の心を捕らえているものは、ベネディクト修道者が呼ぶ「聖なる学問」なのである。
レオ・ベック大学の同僚の幾人かにこの経験について語った時、彼らは笑い、
私が魂のありかたにおいてまったくユダヤ教徒のようだと言った。
同僚の説明によるとユダヤ教徒が、聖書やタルムードに没頭するのは、
単に知識を得るためではなくて、
それらテクストを神という言語に絶する存在に出会う場所として考えているからなのだ。
時として彼らはヘブライ語の言葉―独特の響きをもつこの言葉は、神がシナイ山でその姿を、
モーゼの前に出現した時、神自身によって使われたもの―を諳んじるまで声高に唱える。
彼らはヘブライ語を唱える時、からだを前後に揺らす。
まるで精霊に息を吹きつけられたかのように、
炎が柔らかいそよ風に吹かれて揺れているように、神の前でからだを揺する。
取り立てて素晴らしい幻影を体験したと語るつもりは毛頭ないが、
神学を研究している時、一瞬ではあるが開いているベージが消え、
名状しがたい不思議な喜びと高揚感とで満たされることがある。
このような魂の経験の方が、
修道院で習得した瞑想のようなものより自分には合っているように思う。
誰にでもその人にもっとも適した方法で聖なるものは突然顕れるのだ。
普段私は自分自身を、少しからかい半分で「フリーランスの唯一神教徒」だと名乗っている。
現在私は西洋のキリスト教のみならず他の宗教の伝説から精神的な糧を得ている。
比較宗教学の研究は改宗させるような影響を人に与えることはほとんどない代わりに、
その人自身が信奉している宗教を違った見方で理解させることができるのだ。
私は自分が修道院で習得したスピリチュアリティーが何を目的にしていたのか、
それがどこで狂ってしまったのか―少なくとも私にとって―今では正しく認識することができる。
修道生活に入った日に始まった人生の究極的意味の探究は今も続いている。
しかしそれは私がまったく予期しなかった道へと私を導いていったのだった。





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