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2009.01.26 仏教と道徳
現代社会のモラル崩壊は、戦後教育が招いた結果です。

道徳教育は、軽視され蔑視されてきました。

それは同時に、宗教教育の排除でもありました。

道徳と宗教は、切っても切り離せない関係にあるのです。




いうまでもなく、仏教は、倫理的色彩の最も濃厚な宗教である。
これを仏陀の教説に徴(ちょう)しても、
諸悪莫作、修善奉行、自浄其意、是諸仏教という四句の偈を初めとして、
種々の徳目を掲げて修養の標識を示し、
かつ実際上、仏陀は、大は国家の政道より、小は家庭の平和の道に至るまで、
立ち入って、その信者を導かれたことは経典の至るところに見出し得る事実である。
かつこれを歴史に徴しても、仏教が諸方で盛んに行なわれて民衆的宗教となった契機点も、
これを社会的に見るかぎり、その深遠なる教理よりは、
むしろ卑近なる実際的道徳的教訓をもって、
国家および民衆を教化したところにあったことは、アショカ王の帰仏以来、
支那にあっても日本にあっても、仏教教勢史が明らかにわれらに告げるところである。

仏教の最終理想は、何といっても、超越界であり彼岸界である。
しかし、ここに至るために種々の方式がある中で、その最も重要なのは道徳である。
すなわち道徳によって我執を主とする自然態を破ると同時に、
新しい自主的世界を開き行くのは、解脱への主なる道である。
解脱界は、仏教の最高理想ではあるけれども、一人そのままに止まらないで、
再びここから戻って、現実界に入って、道徳的向上によって、
すべての衆生を率いて、理想界に向かわしめようとしたのは、
仏陀の実行されたところで、しかも余他の学派に対して、仏教の一大特色とするところである。
いやしくも、永遠界を理想とし背景としての道徳ならば、
それは直ちに、解脱への道であると同時に、また解脱そのものの活動である。
これを支える理論として起こったのは、すなわち真空妙有思想より進んで、
如来蔵説、または真如説等に至る大乗哲学である。
すなわち、これを表面上からすれば、我執我欲を相とするわれらの中に、
少なくも可能態としては、如来となるべき力を含み、
しかもそれは、自他平等であるという理論である。
かくしてこれによって、無限の慈悲心を発揮して、
自他平等に如来態を実現した、いわゆる浄土を開展すべく努力するは、
すなわち不住涅槃であって、約言すれば永遠の涅槃と永遠の活動との相即した当体である。
仏教をもって一種の倫理運動なるかのごとくに解する人は、
この永遠の解脱を見逃した点において誤っている。
同時に、仏教に倫理的色彩が弱いと評する人は、
この不住涅槃の道徳的意義を見逃した点において誤っている。
しかして、仏教徒自身が社会を救うに、信仰悟得を主とすべきか、
事業的施設を主とすべきかに迷うは、
信仰悟得をもって単に自内証に限ることと片付け、
事業的施設をもって単なる外的施設と見るところから来たもので、
少なくも大乗的精神の真髄を逸した考え方と評せねばならぬ。
真の信仰悟得には、必ず社会を道徳的に、現実的に救わねばならぬ、
という必然的約束が伴うと同時に、
他のために善事を為す事業なり行為なりが―いやしくも利己心を忘れて施設するかぎり―、
そのまま永遠に連なり、永遠を具体化する道なり、
と解すべきは仏陀の真精神を発揮する所以である。

「木村泰賢全集第六巻」




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