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最近になって、ようやく西洋でも正当な評価をされ始めた仏教ですが、
一昔前は、西洋知識人によって、
キリスト教との差異を鮮明にするために、無神宗教や虚無思想だと喧伝されていました。

戦後、西洋文明に圧倒された日本でも、その論調に追従する知識人が多かったのです。

しかし、分析心理学者の創始者であるユングは、
そのような風潮のなかでも、仏教を正しく理解していた数少ない人物の一人です。

彼は、あくまでも精神医学者としての立場で語っていますが、その洞察は宗教者そのものです。




インドはアジア的な北方と太平洋的な南方の間に、
すなわちチベットとセイロンの中間に位置している。
北はヒマラヤの麓、南はアダムズ橋でインドは唐突に断ち切られる。
そして、一方の端ではモンゴルの世界が、
他方の端では南洋諸島のパラダイスが始まるのである。
セイロンもインドと奇妙に異なる点ではチベットと変らない。
おもしろいのは両方の端に「象の道」が見られることで、
これはパーリ語経典では「ブッダの教え」のことを言う。
なぜインドは、おのれの偉大な光明たるブッダの救いの道、
あの哲学と神の仕事の一体化をなくしたのだろう。
人類がもはや啓示と精神的修行の高みに踏みとどまっていられないのは、周知の事実である。
ブッダは時ならぬ歴史の闖入者であって、
歴史のプロセスをひっくり返したが、やがては歴史に負かされたのだ。
インドの宗教はヒンドゥー教の本殿かパゴダのようなものである。
神々は蟻さながらに、つぎつぎと、
基部に彫られた象の背から、塔の頂をかたどる抽象的な蓮の花へとよじのぼる。
時がたつにつれて、神は哲学的な概念になった。
ブッダという全世界の精神的先達は、悟りを開いた人間は、
その神に対してさえ教師であり救済者であると言い、その実を示そうとした。
だだし、西洋の啓蒙思想お好みの、神の愚かな否定者とは何の関係もない。
これは明らかに、いささか手に余ることだった。
当時のインドの精神は、神を人間の心理状態に依らしむるほど、
神を意識に統合するような段階には、ほど遠かったからである。
ブッダがどうしてこのような洞察に達し、
しかも自身が精神的な自我肥大に陥らないですんだのかは、奇蹟というほかない。
ブッダは神を徐々に観念に変えるという、
時代をあまりに先駆けた試みによって歴史のプロセスを乱した。
真の天才というものは、たいていこういうふうに時代に割り込み、かき乱すものである。
そのときどきの今の世界に、永遠の世界から語りかけるからだ。
そしてまさしくそれゆえに、彼はまさにその時代にとっては誤ったことを語ることになる。
永遠の真理は、歴史の与えられた瞬間にとっては、どの瞬間にあっても真ではないからだ。
観念への変成は、いったん休止ののち、ふたたび始まることになる。
この天才が永遠の貯蔵庫からもたらした、
今のところまるで役に立たないものを消化吸収するには、時を待たねばならない。
それにもかかわらず、天才はその時代にとっての治療者なのだ。
なぜなら彼が永遠の真理について明かすところはすべて、治癒をもたらすからである。
しかし、観念への変成というはるかな目標こそ、ブッダの意図したところにほかならない。
ただそこに至るには、一世代はおろか十世代をもってしてもむりである。
もっと長い間、いずれにせよ、何千年という時間がいるのはたしかである。
それは人間の意識の極度の発達にかかっているからで、
それがないと変成は実現されようがない。
そのことをただ信じるしかない。
ブッダの弟子もキリストの弟子も明らかにそうした。
信者がつねにそうするように、信仰こそすべてだと考えて。
信仰は、うたがいもなく偉大なものである。

ブッダはインドの生活と宗教から消え去ってしまった。
インドがその祖師の魂に恩を忘れているわけではない。
古代哲学への関心は、めざましい復活を見せている。
カルカッタやベナレスの大学には優れた哲学科も設けられている。
ただもっぱら力がそそがれているのは、
古代のヒンドゥー哲学と厖大なサンスクリット文学なのである。
パーリ語経典は、どうやら正しく視野に収まっていない。
ブッダは単に哲学だけを説いたのではない。
彼は人間に挑戦しているのだ!
これがたとえ、「最も遠い道」であっても、結局正しい道なのである。
天才の神にも似た性急さは、小人を悩ませ、気も動転させるだろう。
だがほんの何世代かの後には、小人はまたしても単純に数の力で盛り返してしまう。
そして、どうやらそれで一向さしつかえないようなのだ。


「現在と未来」




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