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2009.02.07 死の叡智
京都大学こころの未来研究センターのカール・ベッカー教授は、孤軍奮闘されています。

教授は、健全な人生観を持つためには、
死後の生をも考慮にいれなければならないというのです。

昔の日本人は、「死の叡智」を持っていたといわれます。

誰もが、身は朽ち果てても、
自分を自分たらしめている心は何らかの形で存続する、と信じていました。

西洋の知見からみても、失われた日本の伝統的な知恵は素晴らしいのです。




ハーバード大学などの最近の研究によって、
ストレスや抑うつの予防策には、「瞑想」が非常に有効であることが分かってきた。
また「瞑想」の中でも、なにも考えないようにする瞑想よりは、
唱えごとを繰り返すマントラ(忘我行)こそが、
その日に襲ってくる様々なストレッサーから、心身を守ってくれることが証明されつつある。
そのためか、ストレス過多社会であるアメリカの大都会でも、
瞑想やヨーガがかなり流行しており、人気を博している。
ストレスの多い職場から逃げることができず、プレッシャーで抑うつ的になりがちな時には、
毎日少しでも自分だけの場と時間を定めて、
精神統一を試みる西洋人が増えているようである。
実は、この「瞑想」こそが、日本人の伝統的な生活習慣であり、智恵でもあった。
明治期までは、日本人のほとんどが、
ストレスや抑うつを予防できる有効な実践を、毎日朝晩行っていたのである。
もちろん、坐禅の修業を行った武士や禅僧は、全人口の数パーセントだけであった。
むしろ、ほとんどの日本人が実践していた「瞑想」は、ご霊前・お仏壇の前で木魚を叩きながら、
お念仏、御題目、般若心経などを声に出して繰り返して唱えるマントラであった。

日本仏教では、初七日、二十一日、四十九日、三カ月、初盆、回忌、法事など、
宗派によって違いはあるものの、遺族が繰り返し集まり、
故人の話をすることで精神的な安定を得たり、
「タタリ」(すなわち死なれてからの不幸)から逃れられたことを経験的に知っていたのである。
考えてみると少々皮肉な話だが、アメリカ人が仏教ビハーラで念仏を唱え、
日本のかつてあった良き習慣を真似しているのに、その日本の知恵が日本では失われ、
精神衛生にかつては役立っていた葬送儀礼から遠ざかるようになっていった。
今こそ見直され、再評価されるべきであろう。

最近、「死者」に関する常識は、西洋においても見直されてきている。
フロイトを出発点とする精神医学は、死者への執着を病理的に捉え、
死と死者のことを忘れることを善しとする傾向が強い。
ところが、日本を視野に入れた、より国際的な研究になると、
死者との関係を切り捨て忘れるよりは、死者と新しい形の「関係性」を保つことの方が、
精神衛生上、健康で好ましい、という見解も出始めたのである。
それに応じて、「死者を忘れろ」との指導を受けた西洋人も、死者と新しい形の繋がりを、
祈りや儀礼、美術作品や記念式などのさまざまな形で、再発見するようになってきた。
日本語では人が死ぬことを「他界する」、「往生する」、「神になる」、「渡る」、「休む」、
「隠れる」、「逝く」などの動詞で表現することが多いが、どれも死が全ての終りではなく、
あくまでも姿を変えて存在し続けることを表している。
身内が亡くなって、身体は灰になっても、
別の形で依然として身近に居るという感覚が広く浸透している。
先祖に食べ物を供えたり、話しかける時もあれば、先祖の墓を掃除したり、
霊を迎えるお盆のような行事もある。
身内が他界しても、彼らの霊を感じられるという日本人は少なくない。
いくら無宗教を標榜する現代人でも、死ぬ間際になると自分も死後、
ご先祖さまに出会えるのではないかと、考えない日本人の方が珍しいくらいである。
それを迷信といって片付けてしまう人もいるかもしれないが、
精神医学の研究によると、先祖の霊を大切に思う者の方が、
先祖の存在を感じず、先祖と話さないという者よりも精神的に健康だそうである。
ここにも見直されるべき日本人の伝統的知恵があるのである。

過去数十年の間、臨死体験や死の間際の現象が医学的に研究される対象となってきた。
1970年代を初め、エリザベス・キューブラー=ロスやレイモンド・ムーディ、
ケネス・リングなどが、アメリカの病院や大学を中心に、何百もの臨死体験を集め、
その驚くべき共通性と、追跡調査で確認できる信憑性を発表したのである。
80年代には、臨死体験国際研究会がコネチカット大学に本部を置き、
その後、バージニア大学、オックスフォード大学、ウェールズ大学などで、
臨死体験を含む死にまつわる不思議な報告を収集・分析し、医療専門雑誌で論じ合ってきた。
特に2000年代に入ると、大きな手術中に、脳波も脳血液も無い患者が、
手術の様子を正しく記憶している臨床例や、医学的に死んだと判定されたのに、
死んでいる間さまざまな場面を見て事実を覚えている臨床例が多数報告され、
一流の医学雑誌に次々と掲載されている。
日本でも医療技術の発達により、蘇生技術が進展し、
このような体験が増えているのにもかかわらず、
日本では医学界は根強い抵抗で臨死体験研究を無視・黙殺していることが、
日本の医学教育の唯物論信仰を物語っている。
だが実は、臨死体験こそが昔ながらの日本人の常識であり、
どこの国よりも数多くの臨死体験を記録している。
千数百年も前から、往生伝といわれる数々の文献の中で、具体的な人物名、目撃者、
場所、時刻など世を去る最後の瞬間に現れた現象や言葉を記録してきているのである。
臨死体験の中では、死んだと思われた人がいわゆる「体外離脱状態」で、
事故現場や病室の様子を見聞きしたりしていたと言うのである。
しかも蘇った臨死体験者の話を実際の事故現場や病室の様子と比べると、
意識不明の患者が知る術の無い事実を把握しているという驚くべきことが度々ある。
そのような体験に驚いた平安時代の僧侶が、来迎図や往生極楽記等を書いたのであるが、
現在も日本人は全く同じような体外離脱体験をしているということが知られつつある。
身体の反応がないように見える者でさえも、見聞きできているかもしれない、
と多くの日本人が感じることは決して単なる迷信ではなく、
経験的な根拠に起因する洞察と考えた方がよいのではないのであろうか。


「愛する者の死とどう向き合うか」




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