FC2ブログ
2009.03.11 僧侶の苦悩
現代のお坊さんの苦悩は深いのです。




仏教は悟りの宗教、宇宙の真理を諦める宗教だから、
生きた者のための宗教でこそあれ、
死人をあつかう宗教ではないという勇ましい発言もよく聞かれる。
いかにも御尤もなので、
そのような坊さんは死者はどうなっても構わないのだから、どうか葬式は辞退してほしい。
いまでは病気になやめる生者のためには病院があり、
貧苦になやめる生者のためには不十分ながらも社会福祉がある。
それでもみたされない精神的な悩みをもつ生者のためには、
精神医学や精神分析の有能なカウンセラーが、白衣を着て作り笑いしながら待っている。
そこで「何々を語る会」や「何々を読む会」などという懇談会、
読書会を寺でひらくことになるが、それもあまり面白くないので、
月を追ってさびれてゆく現状である。

やはり宗教は「生」とおなじというよりは、生よりも重い「死」のためにあるといってよいだろう。
一億二千万の人口には一億二千万の死がかならずある。
その死をうけとり、その霊にやすらかな無限の世界をあたえるのは、宗教のほかにはない。
これは日本仏教にはかぎらないのであるが、
とくに日本人は死者の霊魂の実在をつよく信じ、これを鎮めたり慰めたりして、
やがてその恩寵をもとめる民族であった。
それも先祖から子孫へとつたわる系譜的霊魂の実在を信じたから、
葬式と供養が日本の「家」の原理をささえ、社会秩序と歴史の原理の根底をなしている。
日本仏教はただ葬式だけを執行して来たのでなく、
葬式を通して日本人の精神生活をゆたかにし、社会と歴史をささえて来たといえる。
坊さんの執行する一つ一つの葬式は暗くささやかであるかもしれないが、
日本仏教として総合された役割は大きかった。
そのために大きく言えば、日本の仏教文化は花開いたのである。
葬式と供養の場として寺が建てられ、仏像がつくられ、経典が写された。
平安鎌倉の写経奥書も、石造美術の銘文も、
目ざす死者の成仏と往生のためでないものはない。
阿弥陀如来像というものは、
かつて日本に存在したもっとも華麗な寺であった道長の法成寺九躰阿弥陀像をはじめ、
村々の阿弥陀堂の本尊にいたるまで、臨終仏や供養仏として造立されたものばかりである。
拝観者や展覧会のために造られた作品でないことはいうまでもない。
「山越の弥陀図」や「聖衆来迎図」などの絵画もおなじことであるし、
融通念仏や六斎念仏、あるいは歌念仏や和讃、踊念仏、大念仏、
念仏狂言から盆踊にいたるまで、葬式と供養の必要が生みだした日本人の宗教文化であった。
このような宗教文化創造の原動力は、
日本人の死者の霊魂の実在観と不滅観であったと私はかんがえている。
日本の映画ぐらい葬式やお墓の出てくる国はすくないと聞いているが、
これは日本人のセンチメンタリズムのためばかりでなく、
死者や霊魂への関心が大きいことをしめすものだろうとおもう。
したがって葬式というものは、欧米のように人生の通過儀礼として、
一人の人間が社会から消えてゆく儀礼であるよりは、
その霊魂をやすらかにするための宗教的実践であることが要求される。

それでは葬墓にかかわる宗教的実践とは何かといえば、
まず何よりも霊魂の実在と不滅を確認する修行であるとおもう。
仏教各宗には加行や修法、籠山行や回峯行、坐禅や念仏行、
抖擻や荒行などの実践行がととのっている。
これらはいま形式化したものが多いけれども、
もとは死にいたるまでの厳しい苦行であった。
ということは行者一人の悟りのためというよりは、
死の体験を通して獲得される、霊魂の世界の確認にほかならなかった。
よく修行者が頓死して、地獄や極楽をめぐってくる蘇生譚が、
古代・中世のみならず、近世になってもくり返しくり返し書かれたり、語られたりしている。
智光・礼光の話や日蔵(道賢上人)の話などはとくに有名であるが、
これをたんなる唱導のための作り話としたり、中国の説話の焼直しとするのでは、
あれほどつよく民衆の心をとらえた理由が説明できない。
これは修行の目的に霊魂の世界の確認をもとめるものがあり、
その世界で肉親知人の死者に会ったり、
ときには菅原道真のような有名人に会ったり、天皇や女帝に会ったりして、
その消息をつたえるメディアム(霊媒)のはたらきがもとめられたからであろう。
宗教者や「ひじり」には常識的な現世とはちがった、
非常識な霊界へ出入りする霊的能力が要求されていた。
しかも霊魂の世界に出入りし得る人にして、
はじめて地獄や極楽をかたる資格があったのである。
その体験なしに浄土をかたっても、それはすべて嘘になってしまう。
お経や浄土変に描いてあるといっても、
取り次ぐ坊さんが信じていないことには、すこしも迫力がない。
またそのような浄土を体認した人でなければ、
死者を確実に浄土に往生させる能力があるとは信じられなかったのである。
したがって日本仏教が真の葬式仏教になるためには、
僧侶が霊魂の実在と不滅を体験する宗教的実践を前提としなければならない。
いま葬式仏教を自嘲する人は、葬式を執行しながらも、
そこに霊魂の実在を確信できないことを表明した正直な人であるし、
それにもかかわらず、
莫大なお布施をもらうことを後ろめたいと感ずる善良な人であるとおもう。


五来重「日本の庶民仏教」




クリックして愚僧の活動に御協力ください。 
スポンサーサイト



Secret

TrackBackURL
→http://souryonotakurami.blog46.fc2.com/tb.php/1323-8ef51d58