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現代の日本では、
仏教の根幹である業報輪廻思想が、大きな誤解を受けています。

早稲田大学教育・総合科学学術院教授の石濱裕美子氏は、こう指摘されています。




「善い行いには善い結果が、悪い行いには悪い結果がでる」(善因善果・悪因悪果)、
と教えて人を善に導くことは、一昔前までは日本でも普通に行われていた。
しかし、仏教界が、この思想を語ることに消極的になったこともあり、
最近はあまり耳にすることもない。
輪廻思想や業報思想を否定する人々はしばしばこう言う。
この思想は不幸な人に対して、
「その不幸は過去のあなた自身の行為の結果であるから我慢しろ」、
などの無慈悲な考え方を生む、
不幸な立場にある人も自らの不幸を運命としてあきらめ、無気力になる、と。

しかし、輪廻思想や業報思想を正しく理解していれば、
不幸な人をさらに追い詰めたり、
不幸に打ち負かされて無気力になることなどはありえない。
なぜなら、その悪行によって来世が悪くなるからである。
事実、チベット人は深く輪廻思想を信じているが、
弱者に対して非常にやさしいし、カースト制度のような身分制度もない。

この半世紀の間、民族を挙げて流浪の民となる苦難を味わっているが、
上はダライラマ法王から下は難民キャンプの老夫人に至るまで、
その人生をたんたんと受け入れ、
「来世はこうならないように、善い行いをしよう」と、明るく今を生きている。
チベット人にとって輪廻や業報の思想は、
運命論でも差別思想でもなく、今この時をよく生きる原動力となっている。
そして何よりも、チベット人にとって輪廻思想は、
彼らがそれを護るために亡命までしたチベット仏教の教えの基本でもある。
大乗仏教の理想的な人間像、「菩薩」とは、
輸廻の中の命あるものを最後の一人まで救うために、
あえて輪廻の中にとどまることを決意した者である。
自分の幸せを顧みず、
他者のために生きる人生を無限に生きるからこそ、菩薩の慈悲は称えられるのに、
輸廻思想を封印するなら、菩薩の偉大さは半分も正しく伝えることはできない。
しかも、輪廻思想は、この世のありとあらゆる命あるものに対して、
無限の愛=「無縁の大悲」を育ませる基盤ともなっている。
チベットでは、修行を積んだ高僧はもちろんのこと、
一般の人までが、一日中息を吸うように、
「この世のすべての命あるものが仏の教えをえて、苦しみから解脱しますように」、
と菩薩の祈りを唱えている。


「大法輪 4月号」




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