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わが国の「死生学」、「ビハーラ運動」の先駆者といわれる、
京都大学名誉教授であられた川畑愛義医学博士は、
現在ほどターミナルケアの重要性が認知されていなかった時代に、
すでにこのような提言をしておられます。




生と死の区別ないしその境界は判然としない。
ましてや生存中の心霊あるいは死後の霊魂などは自然科学的にはもちろん、
哲学・宗教的にも容易に立ち入り難く、思弁しにくい領域となっている。
私個人としては空観を経た霊魂説を信じたいものと願っている。
ここに参考のため、『長阿含経』の一文を引用する。
『長阿含経』(増谷文雄訳)に、次の言葉がある。
「アーナンダよ、何人であろうとも信心があって死んだならば、
その身体はすべて空に帰した後、幸福な未来の世界へ再生するだろう。」
これは身体は空になっても迷える霊魂でも、
信心によって楽しい浄土へ生まれかわれることを諭している様に思われる。

A・アインシュタインは、
「宗教なき科学はかたわであり、科学なき宗教は盲目である」と言っている。
生死に関して宗教は非科学的、反科学的であってはならない。
これは、実証科学を超えた世界であるともいえよう。
また、科学は宗教を否定するほどおごってはならないし、
これを無視するほど独断的であってはならない。
ここにゲーテは、学問と芸術をもっているものは、同時に宗教と芸術をもっている。
学問も芸術ももたぬものは宗教をもてと言っている。
またゲーテは、
「未来に希望を持たぬ人はこの世ですでに死んでいるようなものだ」とも言っている。
それより以前、すでにソクラテスの「人間の霊魂は本来不滅である」は有名である。
人々は、ときに生の鏡に死の姿を写してみることによって真の自己を発見したり、
永遠なるもの、最高に美なるものを諦観することがあるにちがいない。
そうすれば死は人間によって与えられた最大の恩恵であるともいえよう。
そしてこの生死の諦観から真の幸福が誕生するにちがいない。

人の命ほど尊いものはない。
それと直接的にかかわっている医師の責務は特に重いものといえよう。
同時にまた永遠な生命の自覚、
あるいは絶対的な純粋体験には宗教人の教導がきわめて大切である。
ここに医学と宗教の密接な連携が要請される。

孔子が「吾未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」と言ったのは有名である。
これに対し、『死を考える』(アルフォンス・デーケン)、
『かいまみた死後の世界』(レイモンド・A・ムーディーJr)、
『死後の世界』(渡辺照宏)、『霊界の警告』(武田崇元)、
『死』(ポール・ショシャール)など死・死後の世界を語る本だけでも私の手もとに二十数冊ある。
しかし死後は結局は孔子の原点に帰ってゆくより仕方がないのではないか。
もしそれ以上模索するとすれば、
それは推測、想像、信仰、祈祷、瞑想などでしかないであろう。
ただ人間は、その所有する精神ないし霊性の故に、
これら死後の世界についても、ちょうど神・仏の絶対性、
また時・空の無限性を感応する可能性を保有しているようである。
それは、しかし依然として宗教性の高い次元のものであり、
科学的実証をこえたものであるにちがいない。
しかし、同時に提示すべき証拠がないから真実ではないといいきれない。
それどころか、この信的経験、霊的感応によって古来いかに多くの人達が現実に救済され、
回生の歓喜を勝ち得、ときに悟道に到達したことか。
それは、何人も否定することのできない事実である。
人々は死後の世界を通じて悠遠の生に感動を覚え、
現実の死の受難をも克服することができるのではないか。
少なくとも、入信、回心などの体験により、死に対する恐怖や不安、
悲歎等を超越することができるのは、疑う余地のない真実のようである。


「宗教と医学のはざまに立ちて」




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