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幸福への近道は、他人を幸せにすることです。

情けは人のためならず。




他の人たちのために祈る場合には、
その人が幸福に豊かに健康になるように祈らなければならない。
「彼が不幸になりますように」などと祈ってはならない。
けれども、時々、人は、「あいつが不幸になればよい」と思うことがあるのである。
その「思う」ことそのことが一種の祈りであるから、
そのように思うことは彼が不幸になることを祈っているのと同じなのである。
常に、あらゆる人たちの幸福を祈らなければならない。
人の幸福を祈れば、類は類を招ぶ法則によって幸福が自己にも訪れて来るのである。
人の不幸を祈れば、不幸は反転して自分に帰って来るであろう。
人の幸福を祈るのは、不幸な有様を見て可哀相だと思うだけでは、
可哀相な有様を、心の世界に描くだけであるから、
「心に描くものが現れる」という法則に随って、
幸福な状態があらわれて来ることはむつかしいのである。 
一度は、相手の不幸な有様を見て「可哀相だな、あの不幸をとってやりたい」と思う。
それが「慈心」である。
そして「あの人を幸福にしてやりたい」と思う。
それが悲心である。
しかしそれだけでは相手を幸福にすることは出来ない。
次には「喜心」が必要である。
彼の中にやどる実相の完全な神性「既に幸福なる彼」を見て、それを喜ぶのである。
その時「見るものはあらわれる」という法則と、
「想うものに類するものが集って来る」という法則とが作用するのであって、
その観と想とが徹底すれば、彼には本当に幸福が訪れて来るのである。
しかし、その幸福は、既に実相の世界にあるのであるが、
今までは観じなかったから現れなかったのである。
しかし実相の完全な相が現象界にあらわれて来るには、
現象界は、時間を通じて展開して来るから、ある時間的経過を必要とするのである。
それを待ち切れないで、「やっぱり駄目だ」と、
幸福招来の祈りの効果を否定してしまう否定的想念を起せば、
想う通りに今までの祈りの効果が駄目になる惧れがあるから、
彼の実相の完全円満な幸福な相を心に描いて祈った限りは、
幸福の種子を蒔いてしまったようなものであって、
「果してその種子が発芽するかどうか」と疑いの心を起して、
種子をたびたび掘り起して見るような事をしてはならないのである。
そのために慈心・悲心・喜心の次に捨心が必要なのである。
創造の大地に祈りの種子を蒔いた後は、必ず発芽する事を信じて、
疑いの心を去って、大地の創化作用にまかせて、心からその念を放ち「捨て」去る事である。
これが捨徳である。
これによって慈悲喜捨の四無量心が完成するのである。


谷口雅春「希望を叶える365章」




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