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2009.04.16 菩提の願い
大乗仏教の理想である菩薩。

菩薩は、大いなる慈悲心と強く悟り(菩提)を求める心を兼ね備えた存在です。




諸々の仏陀と、諸々の菩薩を、礼拝しつつ、
ここに、聖典に従いながら、菩薩行を説こう。
我が種子と共に、皆の種子が、芽生えるように。

輪廻の中で、人に生まれることは稀である。
人に生まれない限り、解脱する事は出来ない。
ここで解脱しなければ、どこで解脱できようか。

さながら、闇夜を、稲妻が切り裂くように、
仏陀が現れると、人々は法の光に目覚める。
闇は深く、光は短い、菩提が無ければ闇は深まる。

古の偉大な聖者は、何劫も思索を続け、
衆生を安楽に救い上げる、菩提心を発見した。
自他の安楽を願う者に、菩提の心は欠かせない。

たとえ、輪廻に縛られた、哀れな魂でさえ、
菩提心を持つに至るや、菩薩として尊ばれる。
人々に尊ばれるばかりか、神々からも貴ばれる。

一度、菩提心を持てば、この不浄の身体も、
極妙な霊薬を宿せる、清浄な身体に変わろう。
暗い輪廻に生きる者は、菩提の灯を堅固に保て。

他の善は、実を結んだ後、味を残して逝き、
菩提の善は、実を結んだ後、種を残して行く。
実に、無限に実るものは、菩提の善だけである。

善と悪を越えている、菩提心に依処として、
初めて、大いなる悪が、大いなる善に変わる。
逆境をものともしない、勇者の如き大徳に変わる。

その昔、弥勒菩薩は、善財童子に説かれた。
菩提心は、宇宙の罪業を、悉く焼き尽くせる、
至上の光であり、それ故に、衆生の宝であると。

要約すれば、菩提心は、二つの段階がある。
前の段は、菩提心を望む、菩提を得る前の心。
後の段とは、菩提心で臨む、菩提を得た後の心。

確かに、菩提心を得ようと考えるだけでも、
この苦界、輪廻の世界に大いなる果報がある。
しかし、菩提心で救うことには、遠く及ばない。

輪廻の大海に臨んで、衆生の済度を望めば、
彼は、菩提心を発して、天の導きに守られる。
これは、如来自らが、善臂問経に説かれている。

これ程の願いは、利己の為にさえ持たない。
それにも拘わらず、利他の為に持とうとする、
菩薩という者は、殊勝な宝にして、衆生の鏡だ。

大きな欲を持たず、仏陀を供養するよりも、
大いなる欲を持って、衆生を済度するといい。
一切の衆生の中に、仏性を見とめられるだろう。

苦しみを避けると、苦しみに向ってしまい、
楽しみを求めるほど、楽しみを破ってしまう。
世の人は、自らの心に、自らの敵を抱えている。

楽しみに煩い、苦しみに悩む、衆生の心に、
楽しみを捨てて、苦しみを断つ、喜びを与え、
菩薩は、何が業で、何が法か、自ずと明らめる。

相対の善と悪を越えた、絶対の徳を与える、
輪廻の出口とも言うべき、菩薩を罵るならば、
永遠の時を地獄で彷徨うと、世尊も説いている。

その一方、菩薩に対して、浄信を抱くなら、
衆生の心が、菩提心を通じ、菩薩の心になる。
悪しき業さえ、空の徳を通じ、善い業に変わる。

この宝の心、偉大なる菩提心を得るために、
わたしは、諸々の如来方と、諸々の菩薩方を、
穢れの無い、正しい法をして、正しく供養する。

全ての菩薩の依処を、わたしは崇拝しよう。
恰かも、菩薩方が、如来方を供養するように、
わたしも、如来方と、菩薩方を供養し続けよう。

そして、この私が、覚醒の境地に至るまで、
私は、仏陀に帰依しよう、法に帰依しよう。
そして、菩薩の依処である、僧伽に帰依しよう。

如来方と菩薩方に、告白しないとならない。
無始の輪廻に於いて、私は悪因を積み続けた。
未来に襲う悪果を恐れ、私は、ここに告白する。

天命を、果し終えたか、果し終えてないか。
何ら省みることなく、死は、命を奪っていく。
師よ、天の命を果すまで、我が命を護り下さい。


シャーンティデーヴァ「入菩提行論」




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