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2009.04.29 法の車輪
仏陀によって、法の車輪は廻されます。

私たちは、この車輪によって存在し、この車輪に従って生きるのです。

仏陀の説く法は、人間の出現に先立ち、人間の消滅に後れてなおも在るもの。

法とは姿を変えた神そのものであります。




世尊は言われた。

「マイトレーヤよ、この法の車輪は深遠である。
何となれば、それは把握することによっては獲得され得ないからである。
この車輪は、第二のものがあり得ないことによって、理解することが困難である。
何となれば、それはよく考えてみると、熟考によって服従させることができないからである。
この車輪をよく知ることは困難である。
何となれば、それは知と賢明さの平等の中で理解されるからである。
この車輪は混乱を持たない。
何となれば、それは完全な解放を獲得しており、束縛を持たないからである。
この車輪は縛られていない。
何となれば、それは付属物から解放されているからである。
この車輪は一つの精髄である。
何となれば、雷電のような一つの知によって獲得されるからである。
この車輪は分割されない。
何となれば、それは過去の限界からは生じないからである。
この車輪には誤りが無い。
何となれば、それは誤りの全ての非難から解き放たれているからである。
この車輪は平然と落ち着いている。
何となれば、それは支えとして無限を持つからである。
この車輪はいたるところに赴いた。
何となれば、それは空に等しいからである。

本当に、マイトレーヤよ、この法の車輪は、生命の解放の車輪であり、
一般に自然の解放の車輪であり、各自に固有の自然の解放の車輪であり、
全ての条件の解放の車輪である。
この車輪には生まれるということがなく、束縛もなく、始まりもない。
これは留まるところのない車輪である。
これは法の規則を、躊躇もなく疑いもなく、発展させる車輪である。
これは空の車輪である。
しるしのない車輪、欲望のない車輪、処方に従って作られたのではない概念の車輪である。
これは識別の車輪である。
激情の無い車輪であり、制約の車輪であり、かの如来によって理解された車輪である。
これは法の諸要素を混ぜない車輪であり、真の限界を決して乱さない車輪であり、
欲望も無く不明瞭さも無い車輪である。
この車輪は、生存の複雑に絡み合った諸原因の中に入ることの、
二重の限界の見解を越えたものである。
この車輪は、終わりも無く中程も無いこの法の諸要素を決して乱さない。
この車輪は、一人のブッダの自発的な行為を妨げない。
この車輪は、動きだすこともなければ、戻ることもない。
この車輪は、知覚することが非常に困難なものである。
この車輪は、人が取ることもなく捨てることもない。
この車輪は、えも言われず美しい。
この車輪は、眼に見える自然と一致する。
この車輪は、一つの対象物の全ての法の平等の中に行き渡る。
この車輪は、衆生の訓練を目指しており、魔法の言葉によって向きを変えられない。
この車輪は、第二がなく、等しいものがなく、傷がなく、
規則の中に入っており、優れた感覚を備えている。
この車輪は、法の諸要素を充分に集めている。
この車輪は、測り知ることのできないものであり、
全ての尺度を越えていて、測れないものである。
この車輪は、あらゆる計算の外にあり、思想によって把握され得ない。
この車輪は、精神の道を越えてしまっていて、等しいものが無い。
等しいものの無いこの車輪は、完全に言語を絶した美しさを持つ。
この車輪は、全ての音や物音やまた言葉の道から分離されており、
際限がなく、比類がなく、空のようであり、分割できず、静止したものでない。
生存の復雑に絡み合った諸原因の中に入ることによって妨げられず、
平静であり、極端に平静である。
固有の性質を持ち、ごまかしが無く、かつてあったことがなく、全ての衆生の言葉を話す。
悪魔の懲罰であり、異教徒に対する勝利であり、
輪廻転生の世界の領域の中に入ることを越えて、ブッダの領域に入ることである。
尊敬するべき衆生によって完全に知られ、
独覚方によって理解され、菩薩方によって受け入れられている。
全てのブッダ方によって褒め讃えられ、
全ての如来方によって分割されることがない。
おお、マイトレーヤよ、これがこの法の車輪、
この如来によって廻された車輪の性質であり、
それを廻す行為に対して、彼は如来と呼ばれるのだ。」


「方広大荘厳経(ラリタ・ビスタラ)」




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