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2009.05.08 如来の教法
科学技術は時代と共に進歩しますが、
悟りや霊的覚醒に関しては、必ずしもそうではありません。

いつの時代も弟子達は、「如来の教法」を完全には理解出来ないのです。

西遊記のモデルとなった三蔵法師玄奘は、
7世紀インド仏教界の状況をつぶさに見て、こう嘆いています。




如来の教法は、
聞く人のそれぞれのもち分に随って理解を得るものであり、
その上今日は、如来の時代を去ることすでにはるかで、
如来の正法の伝わり方に、純なるものと、さほど純でないものとがある。
それぞれ見知る心のままに、いずれも聞き知った悟りを得、
部派は対峙し、議論は沸騰している。
学ぶところを異にし、一科の学をもっぱらにし、
進む道こそ異なるが、帰するところは同じであるのに、
十八の部派がおのおの鉾先をほしいままにしている。
大乗と小乗の二派は、あり方がそれぞれまちまちで、
坐して沈思黙考するもの、
行動して修行するものなどあるが、
心の落ちつけ方・智慧のあり方には大きなへだたりがあり、
さわがしいもの・静かなものなど、まことに差がある。
それぞれの集団に随って、おのおの規則をきめている。


「大唐西域記」




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