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2009.05.19
ランプは違えど、光は同じ
石頭ドグマ仏教徒は、
このようなキリスト者の意見もあるということを知るべきです。
宗教もグローバル時代に入ったのです。
キリスト教的信念は何百年にもわたって発展してきたが、
その発展は、西方教会では何百年もの間、
自分たち以外の人間は救いの箱舟の外にある者と見なす自己囲い込みの体系を、
強化・継続する形態においてであった。
四世紀にキリスト教がローマ帝国の国教になって以来、
他宗教との接触は、対外的には十字軍において、
内向きには何世紀にも及ぶユダヤ人迫害においてというように、
ほとんどが敵対的なものだった。
そしてヨーロッパ諸帝国の時代には、被支配民の諸宗教は一般に野蛮な慣習として蔑まれ、
人々は、より高度な福音の救いの真理へと改宗すべきものとされた。
しかし十八世紀ヨーロッパの啓蒙主義時代以降、
特にその後期の百年ほどの西欧においては、
他の世界宗教の霊的深みと霊力への認識が増大し、
もはやキリスト教だけが唯一の真実の信仰であり、
唯一の救いの位置を占める宗教であるとは認め難いものになった。
このことは大規模な西欧への移民、とりわけインド亜大陸からの移民の結果、
二十世紀後半において深刻な問題となった。
バーミンガムを例にあげれば、パキスタンやバングラデシュ出身の親、
もしくは祖父母を持つムスリムが八万人もいるし、
またシーク教やヒンドゥー教の大きな共同体があり、
同様に小さいけれども長く定着したユダヤ人の共同体もある。
そして、現在では仏教徒、道教徒、さらにはバハイ教のグループもある。
こうした人々の比率は、キリスト教の習慣や信仰をもつ人ロ―もちろん、
大半は名ばかりのキリスト教徒だが―よりも大きいので、それだけの人々が、
毎週キリスト教ではない種々の礼拝場所へ礼拝出席することが、十分に可能なのだ。
私たちが他の信仰に生きる市民仲間と知り合うとき、
―また日常生活のあらゆる場面で、彼らと遭遇するとき―わけても個人的に隣人、
同僚、子どもと同じ学校の保護者として知るとき、
彼らがこの町の一般的なキリスト教徒に比べて、別に不親切でもなければ、
家族や共同体内で心遣いが乏しいわけでもないし、
子どもの教育のために骨惜しみをするわけでもないし、
援助を必要としている隣人たちに手を差し伸べないわけでもないし、
法を守らないわけでも、よき市民でないわけでも、
自分たちの宗教習慣に不忠実なものでもないことに気づかされる。
どの民族、どの宗教にも、ほぼ同じような割合で、良い人間と悪い人間の両方がいる。
そして白人よりも黒人や褐色人のほうに失業率が高いのは事実であるが、
それでもドラッグや犯罪に身を持ち崩した若者たちをたくさん抱えて、
だれもが皆、深刻な社会問題に直面している。
しかし、一般にキリスト教徒のほうが、非キリスト教徒に比べて道徳的に優れているとか、
精神的、霊的に優れているようには思えない。
それぞれの信仰には聖人と呼ばれる稀有な個人が、
多かれ少なかれ、同程度に輩出しているように思われる。
聖人に関する統計数字はないが、これまでのところから言えることは、
宗教的信仰をより平易なものにしてくれるようなこの種のきわだった個人は、
ユダヤ教、イスラーム、ヒンドゥー教、シーク教、仏教などにおいても、
キリスト教内と同様に無数に存在するように思われるということだ。
しかし、伝統的なキリスト教の信念体系が真実である場合に、
これが私たちの期待する内容なのだろうか。
この体系によれば、
イエスは受肉した神(すなわち、子なる神、三位一体の第二位格)であるから、
世界の諸宗教の中で、キリスト教だけが神自身によって基礎づけられたものであり、
それゆえ、事実上キリスト教が、
他のどの宗教よりも優れているにちがいないということになる。
またキリスト教徒として、私たちは神と親密な関係にあり、
教会の聖礼典を通して神との十全的な接触を持ち、
キリストの体である教会の会員として、私たちの内には聖霊が宿り、
キリストに在って他の人々には与えられていない、
神自身の直接的な知恵に与っているということになる。
もしそうであるならば、このすべての結果としての聖霊の実―それを聖パウロは、
「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、乗和、節制」として挙げている―は、
一般のキリスト教徒の生活において、一般の非キリスト教徒たち以上に、
より明白であるべきではないだろうか。
しかし実状はそうとはかぎらない。
そこで私には、偉大な世界信仰はそれぞれ異なりはしても、
私たちの理解する範囲内で言えば、生来の自我中心性から、
神・超越者・究極者・実在者中心への新たな方向への変革、
あるいは互いの価値と愛を認める人間存在への救済的変革をもたらす、
同等の効果の脈絡内にあると考えるほうが、より合理的であるように思えるのだ。
この場合、究極者を思考し経験する仕方の相違は、
人間の在り方の相違、つまり地上の偉大なる文化の相違を反映している。
このことは同様に、究極的実在そのものと、
その異なる状況において形成される人間の精神性によってさまざまにイメージ化された、
実在との間の、相違のことでもある。
しかしこのような見解を、キリスト教徒が持てるだろうか。
イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしによらなければ誰も父のもとへは行けない」「わたしと父はひとつである」、
「わたしを見たものは父を見たのである」と述べたのではなかったか。
それへの回答は、ほぼまちがいなく「否」である。
これらの言葉は、歴史のイエスによる言葉ではなく、
イエスの死後六、七十年経ってから、ヨハネ福音書の記者により、
その時代までに展開されてきた教会の信仰を表現するものとして、
イエスの口の中に注ぎ込まれたものなのだ。
神の受肉はイエス自身によっては主張されなかったこと、
そのような神格化は教会によって次第に進められてきたことは、
今日では新約学者たちの大多数による合意事項である。
より初期の弟子たちの理解では、
イエスは「彼を通して神が行った力あるわざと、
不思議なわざと、あかしの奇蹟とによって神があかしをされた人」だった。
そこにはまた、イエスは神ではないが神の属性を備えていたこと、
人間ではないが人間の属性を備えていたこと、
の両方を密接に結びつけようと試みる重要な「未回答の問い」がある。
一世代前に比べれば、今日のほうがはるかに広く受け入れられてはいるものの、
前述の全内容については、当然のことながら、教会内ではかなりの異論がある。
全教派の指導者たちは、
信仰を異にする人々に対して友好的かつ寛容な態度を取る一方で、
なお押しつけられれば、通常はキリスト教の独自な優位性を強調し、これを保持する。
しかし教会外には、宗教についての本当の問いに純粋な興味を抱く人々はたくさんいる。
そういう人々は、教会やそのドグマを振りかざす石頭からはまったく相手にされず、
しばしば反発すら受けている。
けれども、そのような人々による他宗教への気づきから、
逆に新しい魅力のある可能性の範囲が拓かれていく。
諸教会が、聖書は文化的条件に基づいた人間の一連の著作である、
という含意を受け入れるのに、二、三世代を要した。
私たちはいま、キリスト教における自分の宗教経験と、
人類による宗教経験とが連続したものであるということを、グローバルに認めなくてはならない。
キリスト教が他の宗教と並ぶ一つの真正な宗教であり、
受肉、三位一体、贖罪という教理のどれも、
イエス自身が実際に教えたものではないということを、
諸教会が受け入れるには、おそらくさらに一、二世代の期間を必要とするだろう。
もちろん同様な挑戦は、他のどの宗教伝統も受けている。
私たちは皆、イスラーム神秘主義の詩人ルーミーの、
「ランプは違えど、光は同じ。光は彼方から来たる」という言葉の意味を、
十分に理解できる者とならなくてはならない。
ジョン・ヒック「ジョンヒック自伝」
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このようなキリスト者の意見もあるということを知るべきです。
宗教もグローバル時代に入ったのです。
キリスト教的信念は何百年にもわたって発展してきたが、
その発展は、西方教会では何百年もの間、
自分たち以外の人間は救いの箱舟の外にある者と見なす自己囲い込みの体系を、
強化・継続する形態においてであった。
四世紀にキリスト教がローマ帝国の国教になって以来、
他宗教との接触は、対外的には十字軍において、
内向きには何世紀にも及ぶユダヤ人迫害においてというように、
ほとんどが敵対的なものだった。
そしてヨーロッパ諸帝国の時代には、被支配民の諸宗教は一般に野蛮な慣習として蔑まれ、
人々は、より高度な福音の救いの真理へと改宗すべきものとされた。
しかし十八世紀ヨーロッパの啓蒙主義時代以降、
特にその後期の百年ほどの西欧においては、
他の世界宗教の霊的深みと霊力への認識が増大し、
もはやキリスト教だけが唯一の真実の信仰であり、
唯一の救いの位置を占める宗教であるとは認め難いものになった。
このことは大規模な西欧への移民、とりわけインド亜大陸からの移民の結果、
二十世紀後半において深刻な問題となった。
バーミンガムを例にあげれば、パキスタンやバングラデシュ出身の親、
もしくは祖父母を持つムスリムが八万人もいるし、
またシーク教やヒンドゥー教の大きな共同体があり、
同様に小さいけれども長く定着したユダヤ人の共同体もある。
そして、現在では仏教徒、道教徒、さらにはバハイ教のグループもある。
こうした人々の比率は、キリスト教の習慣や信仰をもつ人ロ―もちろん、
大半は名ばかりのキリスト教徒だが―よりも大きいので、それだけの人々が、
毎週キリスト教ではない種々の礼拝場所へ礼拝出席することが、十分に可能なのだ。
私たちが他の信仰に生きる市民仲間と知り合うとき、
―また日常生活のあらゆる場面で、彼らと遭遇するとき―わけても個人的に隣人、
同僚、子どもと同じ学校の保護者として知るとき、
彼らがこの町の一般的なキリスト教徒に比べて、別に不親切でもなければ、
家族や共同体内で心遣いが乏しいわけでもないし、
子どもの教育のために骨惜しみをするわけでもないし、
援助を必要としている隣人たちに手を差し伸べないわけでもないし、
法を守らないわけでも、よき市民でないわけでも、
自分たちの宗教習慣に不忠実なものでもないことに気づかされる。
どの民族、どの宗教にも、ほぼ同じような割合で、良い人間と悪い人間の両方がいる。
そして白人よりも黒人や褐色人のほうに失業率が高いのは事実であるが、
それでもドラッグや犯罪に身を持ち崩した若者たちをたくさん抱えて、
だれもが皆、深刻な社会問題に直面している。
しかし、一般にキリスト教徒のほうが、非キリスト教徒に比べて道徳的に優れているとか、
精神的、霊的に優れているようには思えない。
それぞれの信仰には聖人と呼ばれる稀有な個人が、
多かれ少なかれ、同程度に輩出しているように思われる。
聖人に関する統計数字はないが、これまでのところから言えることは、
宗教的信仰をより平易なものにしてくれるようなこの種のきわだった個人は、
ユダヤ教、イスラーム、ヒンドゥー教、シーク教、仏教などにおいても、
キリスト教内と同様に無数に存在するように思われるということだ。
しかし、伝統的なキリスト教の信念体系が真実である場合に、
これが私たちの期待する内容なのだろうか。
この体系によれば、
イエスは受肉した神(すなわち、子なる神、三位一体の第二位格)であるから、
世界の諸宗教の中で、キリスト教だけが神自身によって基礎づけられたものであり、
それゆえ、事実上キリスト教が、
他のどの宗教よりも優れているにちがいないということになる。
またキリスト教徒として、私たちは神と親密な関係にあり、
教会の聖礼典を通して神との十全的な接触を持ち、
キリストの体である教会の会員として、私たちの内には聖霊が宿り、
キリストに在って他の人々には与えられていない、
神自身の直接的な知恵に与っているということになる。
もしそうであるならば、このすべての結果としての聖霊の実―それを聖パウロは、
「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、乗和、節制」として挙げている―は、
一般のキリスト教徒の生活において、一般の非キリスト教徒たち以上に、
より明白であるべきではないだろうか。
しかし実状はそうとはかぎらない。
そこで私には、偉大な世界信仰はそれぞれ異なりはしても、
私たちの理解する範囲内で言えば、生来の自我中心性から、
神・超越者・究極者・実在者中心への新たな方向への変革、
あるいは互いの価値と愛を認める人間存在への救済的変革をもたらす、
同等の効果の脈絡内にあると考えるほうが、より合理的であるように思えるのだ。
この場合、究極者を思考し経験する仕方の相違は、
人間の在り方の相違、つまり地上の偉大なる文化の相違を反映している。
このことは同様に、究極的実在そのものと、
その異なる状況において形成される人間の精神性によってさまざまにイメージ化された、
実在との間の、相違のことでもある。
しかしこのような見解を、キリスト教徒が持てるだろうか。
イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしによらなければ誰も父のもとへは行けない」「わたしと父はひとつである」、
「わたしを見たものは父を見たのである」と述べたのではなかったか。
それへの回答は、ほぼまちがいなく「否」である。
これらの言葉は、歴史のイエスによる言葉ではなく、
イエスの死後六、七十年経ってから、ヨハネ福音書の記者により、
その時代までに展開されてきた教会の信仰を表現するものとして、
イエスの口の中に注ぎ込まれたものなのだ。
神の受肉はイエス自身によっては主張されなかったこと、
そのような神格化は教会によって次第に進められてきたことは、
今日では新約学者たちの大多数による合意事項である。
より初期の弟子たちの理解では、
イエスは「彼を通して神が行った力あるわざと、
不思議なわざと、あかしの奇蹟とによって神があかしをされた人」だった。
そこにはまた、イエスは神ではないが神の属性を備えていたこと、
人間ではないが人間の属性を備えていたこと、
の両方を密接に結びつけようと試みる重要な「未回答の問い」がある。
一世代前に比べれば、今日のほうがはるかに広く受け入れられてはいるものの、
前述の全内容については、当然のことながら、教会内ではかなりの異論がある。
全教派の指導者たちは、
信仰を異にする人々に対して友好的かつ寛容な態度を取る一方で、
なお押しつけられれば、通常はキリスト教の独自な優位性を強調し、これを保持する。
しかし教会外には、宗教についての本当の問いに純粋な興味を抱く人々はたくさんいる。
そういう人々は、教会やそのドグマを振りかざす石頭からはまったく相手にされず、
しばしば反発すら受けている。
けれども、そのような人々による他宗教への気づきから、
逆に新しい魅力のある可能性の範囲が拓かれていく。
諸教会が、聖書は文化的条件に基づいた人間の一連の著作である、
という含意を受け入れるのに、二、三世代を要した。
私たちはいま、キリスト教における自分の宗教経験と、
人類による宗教経験とが連続したものであるということを、グローバルに認めなくてはならない。
キリスト教が他の宗教と並ぶ一つの真正な宗教であり、
受肉、三位一体、贖罪という教理のどれも、
イエス自身が実際に教えたものではないということを、
諸教会が受け入れるには、おそらくさらに一、二世代の期間を必要とするだろう。
もちろん同様な挑戦は、他のどの宗教伝統も受けている。
私たちは皆、イスラーム神秘主義の詩人ルーミーの、
「ランプは違えど、光は同じ。光は彼方から来たる」という言葉の意味を、
十分に理解できる者とならなくてはならない。
ジョン・ヒック「ジョンヒック自伝」



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