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仏教は、仏陀を信じ、仏法を信じ、僧団を信じなければ成り立ちません。

ところが、仏陀という霊存在を信じず、仏陀の言説を信じず、
仏弟子達を信じない者が、おおく仏教徒を名乗っているのが現状です。

このように日本の仏教を矮小化し解体したのは、
戦後の進歩的文化人(唯物論者)といわれる学者達でありました。

仏教学は仏教にあらず。

今後、伝統仏教が生き残っていくためには、
この問題(和辻哲郎木村泰賢原始仏教無我論争)を解決しなければなりません。




近年、和辻の仏教理解について、
近代仏教学の形成に大きな役割を果たしたことが、批判的に言及されることがある。
和辻の仏教の捉え方は、初期の無我・縁起の思想が、
部派仏教の法の体系に発展し、大乗仏教(ナーガールジュナ)では、
さらにその法を根拠づけるものとして空が説かれた、というもので、
このように仏教を思想史的展開として捉えることは、
現代の仏教研究の多くの前提となっている。

しかしこれは、伝統的な仏教理解とはまったく異なる。
信仰の立場からすれば、
仏陀とは「無上等覚者」、最高の悟りに到達した存在であり、
その教えがさらに発展するということはありえない。
仏教には様々な相異なる教えが存在するが、
それは「対機説法」、釈尊が一律に教えを説くのではなく、
相手の能力などに合わせて教えを説いたことで説明される。

現在では仏教学者はもちろん、僧侶の間にも、
輪廻は迷信であって仏教本来の考えではない、
大乗仏教は後世になって生まれたもので、
釈尊の教えとは異なると考えている者が少なくない。

和辻がこのような伝統とは大きく異なる仏教理解をした背景としては、
次の三点が考えられる。
一つは、近世の儒者や国学者による排仏論の影響である。
彼らは仏教を否定し、
膨大な大蔵経典は、釈尊の説いた教えではないという大乗非仏説を唱え、
輪廻の考えを否定し、地獄や極楽、須弥山を中心とした仏教の世界像を、
虚なるもので現実世界とは異なるとして斥けた。
和辻はそれらの批判に対して仏教側が反論できないでいるとして、
その批判点をすべて受け入れた上で、
来世の信仰などは迷信であって仏教本来のものではないとして、
大乗仏教についても後代に思想的に展開したものとして捉えたのである。
二つめは、西洋の文献学的な仏教研究の成果の取り入れ。
西洋の聖書研究では、
福音書の記述から歴史的イエスの実像を取り出すことが試みられていて、
その応用として、経典から後代の莢雑物を取り除いて、
歴史的な釈尊の実像を見出そうとすることがおこなわれた。
そもそも西洋の文献学の背後には「神は言葉と共にありき」、
というキリスト教の言語観が存在し、仏教の言語観とは基本的に異なる。
伝統的な言い方を用いれば、仏教においては、
言葉は「月を指す指」であり、月そのものではない。
釈尊の教え方自体が対機説法、相手に応じて異なった説き方をしたとされているのであり、
文献に残る多様な言葉を整理し、系統立てていけば、
ひとつのオリジナルの言葉にたどり着くということにはならない。
この点についての和辻なりの答えが、
三つめのヘーゲルの哲学史を手がかりとした思想史的把握だと思われる。

ここではヘーゲルの思想との差異として、
和辻の仏教理解への違和感を表明して、この節を終えることにしたい。
ヘーゲルは感覚的確信から絶対知へ至る過程として『精神現象学』を著したが、
その基本発想として、感覚的確信が間違いで絶対知が正しいというのではなく、
知にはそのレベルレベルの正しさがあり、
あるレベルで正しいものと思われたことに限界が訪れ、
より高度な知が求められていくものとして、人間の知を捉えていることがあると思われる。
『精神現象学』の体系を構想する以前、
初期の思索において、ヘーゲルは啓蒙哲学に関心を持つと同時に、
人々の素朴な信心にも深く共感し、
それを主体的宗教と呼び、客体的宗教である神学者が説く教義と対比して、
後者は死んだアルコール漬けの標本にすぎないとしている。
長谷川宏『ヘーゲルの歴史意識』から、
若き日のヘーゲルの草稿『キリスト教と民族宗教』の所説を引用すると、

「年をとってくると、宗教に関係することがらが生活のおおきな部分をしめ、じっさい、
おおくのひとにとっては、ちょうど車輪の外側の円がその中心とつながっているように、
思想や嗜好の全範囲が宗教とつながりをもってくる。
私的な幸福を左右する重要なできごとや人生上の行事のすべてに、
たとえば、誕生、結婚、死、葬儀などのうちに、
すでに宗教的なものがまじりこんでいるのである。」
「宗教は神や、神の特性や、神にたいする人間と世界の関係や、
人間の魂の不滅や、に関するたんなる学問―それはおそらくは、
たんなる理性によってうけいれられたり、
またべつの方法でしられるようになったりするものだが―、そうしたたんなる学問ではないし、
たんなる歴史的知識や理屈ばった知識でもなく、
むしろ、こころをひきつけ、われわれの感覚や意思決定に影響をおよぼすものである。」
「客体的宗教は信じられる信仰である。
そこにはたらく力、つまり、知識をおいもとめ、かんがえぬき、
保存し、また信じもする力は、悟性と記憶力である。
客体的宗教には実践的知識もふくまれうるが、
それは効力なき死金としてふくまれるにすぎない。
客体的宗教は頭のなかで秩序だてられ、
ひとつの体系にもたらされ、一冊の本に表現され、他人の前で講義される。
が、主体的宗教は感情と行動のうちにしかあらわれない。
ある人間が宗教をもっているということは、
かれがおおくの宗教上の知識をもっているということではなく、
かれのこころが神の行為や奇跡や接近をかんじ、
自分の本性や人類の運命のうちに神をみ、神のまえにひざまずき、
神への感謝と讃美を行為であらわし、行動するにあたっては、
それが善であり賢明であるかどうかを気づかうのみならず、
神の気にいるか、神が行動の原因になっているか、
という点になににもまして気をつかうことがおおく、
なにかをたのしんだり、幸運なできごとにぶつかると、
ただちに神に目をむけ神に感謝する、といったことを意味する。
主体的宗教はいきいきとしたものであり、存在の内面からそとにむかう活動である。
主体的宗教が個人的なものだとすれば、客体的宗教は抽象物なのだ。
前者つまり主体的宗教は、
植物や虫や鳥や動物が、たがいにたすけあって生活し、たのしみ、
まじわっている自然のいきた書物であり、そこにはあらゆる種類のいきものが、
いっしょにすんでいるが、後者つまり客体的宗教は、虫をころし、植物を乾燥させ、
動物を剥製やアルコール漬けにして、自然が分離したものすべてを、
ただひとつの目的にしたがって秩序づける博物学者の標本室である。
自然のなかでは無限に多様な目的が友愛の絆のうちにのみこまれていたのに。」

このようなヘーゲルの論と比べた時、
民衆の信仰を仏教本来のものではない迷信として切り捨て、
釈尊の悟りを出発点とする思想史的展開を構想する和辻の仏教は、
大切なものを落としてしまっているのではないかと感じざるをえない。

むしろ伝統的な仏教の方にヘーゲルに近いものがあるという印象を持っている。
たとえば、「群盲象を撫でる」の比喩で語られるように、
これこそが真理であると説くインドの他の宗教家、思想家たちに対して、
「これこそが真理である」という形で語られるものは真理ではないと釈尊は説いた。
釈尊は「これこそが実理である」と説くこと自体が不毛な営みであり、
自分が説くのは、苦しみの解放の道であるとして、
相手の理解力にあわせて異なる教えを説き(対機説法)、苦しみからの解放に導いた。

民衆の信仰を切り捨てた仏教哲学など、
それこそヘーゲルのいう、
「虫をころし、植物を乾燥させ、動物を剥製やアルコール漬けにして、
自然が分離したものすべてを、
ただひとつの目的にしたがって秩序づける生物学者の標本室」以外の何物でもない。


吉村均「神と仏の倫理思想」



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