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日本にも、仏教が唯物論化(近代和辻仏教学以降)する以前には、
河口慧海氏(1866-1945)のような法力を備えたスケールの大きな高僧が存在しました。

氏と現代の僧侶との違いは、仏法僧の三宝に対する信の強さです。

冥界や因果律に対する揺ぎ無き信故に、修行もまた貫徹できるのです。




業の因果律に対する疑義。
世に現われておる諸種の事実は、甚だ複雑に錯綜して行われているので、
単純に原因と結果との関係を見ることは、非常に困難なる問題である。
されば世人は、よく以下の如き疑問を起すのである。
それは彼等が人事的現象を見るに、極悪非道の人があって、
彼は他人の財産を横領し、あるいは密かに他人を毒殺し、
あるいは窮死せしめたなどと、あらゆる悪を行いながら法網を脱れて、
かえって甚だ幸福に一生を過す者がある。
しかるに他の一方には、学識もあり才徳もあり、
その上、正義を実行する人がかえって世に不遇であつて、
一生不幸で貧困病難等に苦しむ者がある。 
これらの事実を見れば、因果律は信ずるに足らないではないかと。
なる程疑惑するような事実もある。
しかしそれらの事実もまた、毫も因果律から離れておらぬことを、
以下に挙げる法則の説明によって知るべきである。

業相続の永久不滅。
時間は無始無終であると同時に、空間は無辺無際である。
その間に存在する業力即ち、吾人をして今日あらしめておるものは、
無始より相続して来たもので、無終に永続するものである。
いわゆる業力不滅である。
この永久不滅の業力は、因果の法則に随って、
それが現象に変化を顕わしつつ相続しておるものである。
そうして業に対する因果律は、自作自受がその性律であるから、
その性律の特性として各自の個別を相続せしめるものである。
ここに於て、吾人の生前における生も死後における生の存在も、
合理的に承認せねばならぬこととなる。 
まずこの了解が出来れば、以下に説明する三時業についての了解も容易である。

順現受業。
この法則は現生に行った善悪無記業の結果を現生に受けることをいうのである。
たとえば、一年を一生とすれば、今年蒔いた米を今年収穫するが如きものである。
この生に行った善悪等の業因によって、この生の中にそれらの結果である幸福、
あるいは苦痛などを受けることをいうのである。
諸のカルマの中でこの種の業に属するものが、甚だ多いと仏は示された。
けれども一切の業の結果を、すべて受け尽してしまうものではない。
次生に次生にと業は相続して、その結果を受けるものである。

順次受業。
この法は、この生で作った善悪業の結果を、次生で受けることをいうのである。
これはあたかも本年蒔いた麦の種子で、来年その結果を収めるようなものである。
この点から見ると、吾人が現生に受けている結果で、
現生に於てそれが原因となるべき業のない時は、それが結果の原因は、
前生あるいは前々生にあったものと知ることが出来る。 
これによると前の論者の疑問も、判明することとなるのである。
それは今受けておる結果の果報は前生あるいは前々生の原因の然らしめたものである。
そうして今現に為しつつある善悪の業は、未だ果の結ぶ時が来ないのであるから、
善人が苦患を受けたり、悪人が幸福を受けたりする理由が判明するのである。

順後受業。
この法は第二生以後に結果を受ける業をいうのであって、随分遅く結果する業である。
あたかも植えてから十数年後に実を結ぶ橙の如きものである。

以上三時業は、その業の結果に遅速はあっても、必ず一定して実を結ぶものである。
それゆえにこの三時業を総称して定業という。
この定業に反して或業は何時その果を結ぶか、判然と定らないものがある。
またそれがはたして果を結ぶか、あるいは、結ばないのかすらも、
常人には判知出来ない程の業がある。
これらを不定業というのである。

以上述べた所の因果律について、なお微細によく考察するならば、
宇宙に行わるる一切の現象、人事万般の変化に至るまで、秩序整然、因果歴然と行われて、
一糸乱れず明々白々と現前して、毫も吾人を欺かないことを知ることが出来る。

「在家仏教」




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