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2009.11.07 霊は常ならず
唯物仏教者いわく、
「永遠不滅の霊魂を認めるということは、それは常見であり、外道である」と。
(何故か断見の方は問わない)

コピペ
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
断見(だんけん)とは、因果の法則を無視して、
人が一度死ねば、断滅してしまい二度と生まれることがないとする見解のこと。
反対語は常見(じょうけん)。
原始仏教、つまり釈迦が在世の頃にあった六十二見のうちの1つで、
この世界・世間や我の断滅を主張したものである。
「見」とは見解・意見・見方のこと、あるいは邪見や執見との否定的な意味も含む。
人の一生・人生はこの世の一回限りであるとして、死後やその運命を否定して、
この世における善と悪の行為やその果報を無視し否定する見解をいう。
『長部』では「肉体は壊れることにより断滅し、死後は存在しない」と述べている。
断見の反対語は常見といい、人の一生・人生はこの世の一回限りであるが、
死後もこの世界においてアートマンという固定の実体が、
不滅で永続するものであると肯定する見解をいう。
『長部』では「我と世界は常住である。
死後山頂の如く不動で石柱の如く固定したものである」などと述べている。
仏教では中道や無記を説き、両方の偏った見方に依らない、不断不常の中道を宗旨とした。
なお、大乗仏教の教義が発展すると、不断不常の中道から、
対立する見解とは違う次元で如来我すなわち仏性の常住を説くようになった。
コピペ終り

しかし、釈迦時代には「霊魂」などという言葉はなかったのであり、
現代においても、霊魂という言葉が何を意味するかの定説はありません。
それなのに霊という言葉を聴いて過剰に反応するのは唯物論者の特徴です。
彼らは、とにかく、物質以外の生命形態を認めたくないのです。

釈迦はもちろん「霊的生命体」である「化生のいけるもの」を認めていましたし、
そもそも、いろんな霊存在と対話しているところが、最古の仏典には記載されています。

これを、釈迦は霊魂を否定したなどというのは、暴論です。

霊魂を認めることが「常見」にはならない理由は、
霊というのは、固体や物質ではありませんし、
肉体の死後も変化し続け、外皮を脱ぎ捨てるように進化していくものなのです。

死後の生命(霊)の形態は常ではないのです。

むしろ転変万化するエネルギーなのです。

しかも、その霊そのものも、
神の光に還元されうるもの(肉体が量子に還元されるうるのと同じく)という意味においては、
霊魂という言葉からイメージされる一個の塊でもないのです。

このことを見霊者スウェデンボルグが上手く説明しています。




世間の人々がまるで知っていないことで言っておかねばならないことは、
多くの霊や天使たちは少しずつ変化し、より完全なものに向かっていくものだということだ。
彼らは自分の住んでいる霊界の同じ団体のなかでも、
より深部へ向かって移動し、より高い役割りを果たすようになっていくのである。
なぜなら天国ではやむことのない純化、
いってみれば新たな創造がつねに続けられているからだ。
しかし、そうはいっても、どの天使もまったき完全さといったものに到達することはない。
完全なのは主のみである。


「天界の秘儀」




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