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2009.12.13 神も仏も
真実は、歴史の深い闇に埋もれてしまっています。

しかし悲しいかな、どんな宗教であっても、
時代を経るにしたがって、
弟子たちや為政者たち、学者たちによって、
彼らの都合のいいように教えがねじ曲げられてしまうのです。




正統的ユダヤ教徒とキリスト教徒は、
一つの深い割れ目が人間を創造主から隔絶している、と主張する。
神は完全に他者なのである。
これに対して、ナグ・ハマディ文書を書いた若干のグノーシス主義者たちは、これを否定する。
自己認識は神認識である。
自己と神とは同一なのである。

第二に、ナグ・ハマディ文書の「生けるイエス」は、
迷妄と覚醒を語るが、新約聖書のイエスのごとく、罪と悔い改めを語りはしない。
またイエスは、われわれを罪から救うために来臨するのではなく、
人間に霊的知解への接近を拓く導師として来臨するのである。
しかし、弟子が、覚醒を達成すると、イエスはもはや霊的主として仕えることはない。
両者は対等に、同一にさえなる。           

第三に、正統的キリスト教徒は、イエスを、彼のみが主にして神の子であると信じている。
イエスは、彼が救済するために来臨した人間とは、永遠に峻別されているのである。
これに対して、グノーシス派の『トマス福音書』では、トマスがイエスを認めるやいなや、
イエスがトマスに、両者ともその存在を同じ源泉から授かった、と言っている。

このような教え―神性と人間の同一性、迷妄と覚醒に対する関心、
主としてではなく霊的導師としての創立者―には、
西洋的というよりも、むしろ東洋的な響きがあるのではないだろうか。
若干の学者たちが示唆しているように、
名前を代えたならば、『トマス福音書』で生けるイエスに帰されている言葉は、
「生ける仏陀」の言葉にふさわしいと言い得よう。

われわれが東洋の宗教とか西洋の宗教とか呼んでいるもの、
またわれわれが別個の流れをくんでいると思いがちなものは、
2000年の昔には明確に区別されていなかった。


エレーヌ・ペイゲルス「ナグ・ハマディ写本」




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