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武士道はまだ生きていた!!

特殊作戦群初代群長であられた荒谷卓氏が、
日本人が忘れたものを教えてくださっています。




戦後、日本人の精神が荒廃した根源は教育にある。
戦後の教育は、教育基本法によって憲法の思想を普及することに主眼を置いた。
その憲法の思想とは何か。
たとえば、憲法九条だ。
この戦争放棄をうたった精神は、インド独立運動のガンジーのように、
自己を犠性にしても武器の前に無抵抗で戦う崇高なる非暴力の精神とは、
まったく無縁のものである。
九条は人権という美名の下に、社会集団に対する犠牲的精神を嫌うエゴイストを正当化し、
「侵略国の国旗を揚げて歓迎することはあっても、戦いは放棄する」、
という「精神価値の放棄」を日本人にあたえた。
これは、奴隷的精神である。
敵意のあるものに対して、一方が「戦わない」と宣告したからといって、
平穏でいられることなど、現実にはありえない。
いじめっ子に、無抵抗でいたらどうなるか予想がつくはずだ。
憲法九条の精神では、同胞が拉致され、
その家族が苦悩している状況を自らの問題として考えることもなく、
ましてや理不尽を正すためには戦いも辞さないという発想はまったく出てこないだろう。
結局、戦後の日本人が憲法精神に従って放棄したのは「戦争」ではなく、
「戦うことも辞さない正義心を持った生き方」なのではないか。
「世のため人のため」に精一杯尽くすことを良しとし、
「少なくとも人様に迷惑をかけないように」と教えていた日本の社会道徳は、
「自分のためにだけ生きる」憲法思想に取って代わられ、
上から下まで自己の欲求を最優先する輩が日本を占有している。
日本人本来の美しくて強い精神文化である、
「家族のような国を創ろう」という神武天皇建国の精神や、
「正しいと信ずることを貫き通すためには、自分の肉体の生死など気にかけない」、
という武士道の犠牲的精神は憲法思想の敵として追い詰められてきた。
経済成長と経済効率がすべてで、
何事も金に置き換えて価値判断するようになった戦後の日本人は、
金儲けのためには戦うが、公共の理念や正義のためには戦わない。
最近は、個人の利益のためにすら戦わない無気力な人間がいるようだが、
戦わない種族は保護でもされないかぎり絶滅する。

平成16年早春、私の他に見送りもない空港で、
混乱の続くイラク南部の町サマーワに出発する4人の特殊部隊戦士を見送った。
心が定まった様子で、肩の力が抜け、
ことも無げにイラクヘと歩み出した彼らの雄々しい後ろ姿を忘れることはできない。
任務は要人警護、部隊警備を主とするも、
イラクでの人道復興支援活動の目的を達成するために、
必要なあらゆることをしなくてはならない。
出発までには、一般的な軍事訓練をはるかに超えた特殊戦技能を磨いた。
それは、単に情報活動、救急救命、緊急事態対処などに留まらず、
現地の人たちとの心の交流ができるようにアラビア語を学び、コーランを学習した。
しかし、最も重要なのは、イラクの地で日本人の真価を発揮できるよう、
武士道精神を身につけて出発したということである。
彼らの任務遂行手段は、武器に頼らず、日本人としての真心であった。
ほどなく、4人の戦士は、
サマーワの人々から「サオディー(幸福)」と呼ばれるようになった。
「お前にはイラク人の血が入っているはずだ」と言われるほどに、
彼らは現地の人々に溶け込み、任務期間を終えても、
そのまま残留してイラク復興のための活動を続けたいと望んだ。
他の国の軍隊にはありえない話である。
自衛隊が海外での活動をするようになってから、
このような経験をした自衛官は多数存在する。
東チモールでの自衛隊の活動に対し、グスマン大統領は石破防衛庁長官(当時)に、
「自分は世界の中に、このようにともに笑い、ともに汗し、ともに涙する、
そういうような軍事組織があるとは知らなかった」と伝えたという。
これは、日本政府が計画的に実行したことではない。
また、活動の根拠たる法律に記載されているわけでもない。
イラク人道復興支援活動は、「一発の銃弾を射つこともなく、 
一人の犠牲者も出さずに任務を終えた」と賞賛されたが、それはなぜなのか、
政府も自衛隊も深く考えるべきところだ。
その根源は、日本人としての真心がなせることなのだと。
聞き伝えではあるが、パウエル米国務長官(当時)が、
「サマーワでの自衛隊の活動は、
地方復興チームの活動として大変に興味深い」と評価したという。
今や世界の軍隊の主たる作戦となった「平和構築活動」において、
自衛隊の日本的手法が有効であると評価されたのだ。

米国特殊作戦学校(SWCS:通称「グリーンベレーQコース」)に留学中、
特殊戦部隊のオフィスで「武士道」という日本語の文字を見かけた。
そこで「君たちはこの文字の意味を知っているのか?」と質問してみた。
彼らの答えは、忠義の対象がマニュアル化された理論であったり、
戦いを共にするチームメイトであったりと、
米国人独特のメンタリティーが含まれてはいるものの、死生観としては立派なものであった。
今や日本人の多くが忘却し理解できなくなってしまった感のある「武士道」が、
「正しいと信ずることのため自己の生死をも問わず行動する精神」、
として米国の特殊戦部隊の中で生きていた。

私は、特殊作戦群長として当時の部下にこう言った。
政治・宗教テロリストは、彼らの正義に基づいて決死の覚悟で行動している。
彼らと戦うなら、それに負けない正義と覚悟を持ち合わせなくては勝てない。
また逆に、正義感も持ち合わせずに、
「命令ならば殺します。命令ならば死にます」という機械人間は、
戦闘員として不適切な人物と言わざるを得ない。
必要なのは、任務行動に際して、
他人や自分の「死」に直面しても正義を貫き行動できる精神的支柱を備えた戦闘員である。
ましてや、指揮官は自分だけでなく部下の生死に関しても責任を有する。
部下が何のために人を殺し、自分の死をも許容するのかについて、
責任を深く自覚しなくてはならない。
何よりも、日本の戦士たる自衛官にあっては、
武士道を実践することが日本の核心的な伝統を継承しつつ日本を守ることになる。
それは、領土や経済的利益を守るよりはるかに重要なことである。
日本人が日本人でなくなって、
土地や金にしがみついていたのでは日本を守っているとは言えまい。
自衛官にとっての武士道は、日本の武人がそうしてきたように、
己の肉体の要求を後にしても、
精神が欲する公共の正義を守り抜かんとする強力な意志と行動である。

「戦う者たちへ」




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