| Home |
2008.04.29
地湧の菩薩
宮沢賢治は、敬虔な仏教徒でありました。
優れた詩や童話作品などで、親しまれる宮沢賢治ですが、
その人生や信仰についてはあまり知られていません。
彼は、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に首席で入学、
自然科学を学びます。そのころに、「法華経」と出会い、
日蓮宗の信者となって熱心な宗教活動を行うようになります。
東京に出て、日蓮主義の「国柱会」にも参加しています。
東京から帰った後には、花巻農学校の教師となりますが、
その変わった授業が評価されず、教職を去ることとなります。
その後は、「羅須地人協会」と自ら名づけた小さな家で、
農業と芸術の一体化による新しい村づくり、農業指導に励みます。
その後も、石灰肥料を普及する指導員となって働きますが、
激務によって体調を崩し、37才という若さで、独身のままこの世を去ります。
遺言では、「法華経」を千部配るように言い残しました。
評価が高まって国民的作家となったのは、没後のことです。
あまり知られていませんが、宮沢賢治は霊能力者でもあったのです。
生前に知人に語ったことばが残されています。
「僕はもう何べんか早池峰山に登りました。
あの山には、御承知かも知れませんが早池峯の七不思議というのがありまして、
その一つに河原の坊という所があります。
早池峯の登山口で裾野をのぼりつめたところの岳川という、
岩をかむ清流の岸辺にありまして、言い伝えでは何でも何百年か以前に、
天台宗の大きな寺のあった跡で、修行僧も大勢集まっていて、
随分盛んなものだったということです。そこでは今も朝の小暗い黎明時に、
ひょっとするとしんしんと読経の声が聞えて来ると噂されております。
先年登山の折でした。僕はそこの大きな石に腰をかけて休んでいたのですが、
ふと山の方から手に錫杖を突き鳴らし、
眉毛の長く白い見るからに清清しい高僧が下りて来ました。
その早池峯に登ったのは確か三年ばかり前なのですが、
その御坊さんにあったのは、何でも七百年ばかり前のようでしたよ。」
「僕は妹のとし子が亡くなってから、いつも妹を思ってやすむ前には必ず読経し、
ずっと仏壇のそばに寝起きしているのだが、
この間いつものように一心に御経を読んでからやすむと、
枕辺にとし子の姿がありありと現れたので、
すぐ起きてまた御経を上げていると見えなくなった。
次の晩もやはり姿が見え、二晩だけであとは見えなかった。
人間というものは、死んでからまた別の姿になってどこかに生を受けるものらしい。」
「宮沢賢治」佐藤隆房著
宮沢賢治は、
「世界が全体幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」として、
無私の精神で他者への献身につとめた、菩薩でありました。
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
優れた詩や童話作品などで、親しまれる宮沢賢治ですが、
その人生や信仰についてはあまり知られていません。
彼は、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に首席で入学、
自然科学を学びます。そのころに、「法華経」と出会い、
日蓮宗の信者となって熱心な宗教活動を行うようになります。
東京に出て、日蓮主義の「国柱会」にも参加しています。
東京から帰った後には、花巻農学校の教師となりますが、
その変わった授業が評価されず、教職を去ることとなります。
その後は、「羅須地人協会」と自ら名づけた小さな家で、
農業と芸術の一体化による新しい村づくり、農業指導に励みます。
その後も、石灰肥料を普及する指導員となって働きますが、
激務によって体調を崩し、37才という若さで、独身のままこの世を去ります。
遺言では、「法華経」を千部配るように言い残しました。
評価が高まって国民的作家となったのは、没後のことです。
あまり知られていませんが、宮沢賢治は霊能力者でもあったのです。
生前に知人に語ったことばが残されています。
「僕はもう何べんか早池峰山に登りました。
あの山には、御承知かも知れませんが早池峯の七不思議というのがありまして、
その一つに河原の坊という所があります。
早池峯の登山口で裾野をのぼりつめたところの岳川という、
岩をかむ清流の岸辺にありまして、言い伝えでは何でも何百年か以前に、
天台宗の大きな寺のあった跡で、修行僧も大勢集まっていて、
随分盛んなものだったということです。そこでは今も朝の小暗い黎明時に、
ひょっとするとしんしんと読経の声が聞えて来ると噂されております。
先年登山の折でした。僕はそこの大きな石に腰をかけて休んでいたのですが、
ふと山の方から手に錫杖を突き鳴らし、
眉毛の長く白い見るからに清清しい高僧が下りて来ました。
その早池峯に登ったのは確か三年ばかり前なのですが、
その御坊さんにあったのは、何でも七百年ばかり前のようでしたよ。」
「僕は妹のとし子が亡くなってから、いつも妹を思ってやすむ前には必ず読経し、
ずっと仏壇のそばに寝起きしているのだが、
この間いつものように一心に御経を読んでからやすむと、
枕辺にとし子の姿がありありと現れたので、
すぐ起きてまた御経を上げていると見えなくなった。
次の晩もやはり姿が見え、二晩だけであとは見えなかった。
人間というものは、死んでからまた別の姿になってどこかに生を受けるものらしい。」
「宮沢賢治」佐藤隆房著
宮沢賢治は、
「世界が全体幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」として、
無私の精神で他者への献身につとめた、菩薩でありました。



クリックして愚僧の活動に御協力ください。
スポンサーサイト
| Home |