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2011.01.28
空、無我、悟り
西洋では、無神論者や唯物論者は少数なため、
比較的、仏教も正しく理解されているようです。
仏教国の日本人よりも、欧米仏教徒の方が、その真髄を捉えているとは情けないことです。
仏教によると、苦しみと不満の原因ばかりか、
再生(六道輪廻)の原因も無知と貧欲とされる。
噛み砕いて言えば、私たちは自分の「真の本質」を知らずに、
自己と宇宙について、間違った考えにしがみついているということになる。
いちばん問題なのは、
「私たちが自分の考えを固く信じ込んでいる」ことだ―それは自分自身についても、
いわゆる客観的現象についても、いや、何についてもそうなのだ!
私たちは、自分なりの事象の解釈を事象自体の本質とさえ思い込んでいる。
哲学ではこれは「物象化」と呼ばれる。
要するに「抽象概念を具体的な事物に変えること」で、
仏教徒の目から見れば、私たちは生の体験から固定慨念をつくり出す場合、
常にこうした転換を行なっていることになる。
これは夢のうちに生きると呼ばれ、
十全な悟りを開いた人を除けば、
誰もがやはりある程度まで迷妄のうちに生きるということだ。
禅宗でも重要な経典『般若心経』にあるように、
名目と形態(物質的存在と観念)は、
どちらも実は、確かたる自性(独自の本質)のない空である、と仏陀は説いた。
要するに、一切の物質的存在は空のうちにあるがままにあり、
私たちが名づけるとおりに存在するのではないということだ。
私たちの定義づけは、
合意で成り立つこの「地上世界の現実」ではたしかに価値があるが、
その霊的なパワーは限られている。
言い換えるなら、自分を知るためには、
自分を忘れなければならないということなので、
自己を徹底的に拡大させてみることでしか「自己救済」はできない。
同じように、
(仏の四十八願)一切衆生の救済が成就するには、すでに救済されていると悟ることだ。
言うまでもなく、こうした教えは、
いずれも仏教の無我の根本義から出てくることで、
私たちのありのままの姿、すなわち実相は、
どんな二元論的な概念でもつかめないということだ。
「愛だけでは十分ではない」のだ。
誤った見方、
仏教徒が「執着」と呼ぶもの(私たちが抱きつづける迷妄)を捨てようとするなら、
智慧も必要だ。
西洋の形而上学は別の見方を用意する。
西洋哲学では、「無我」や「空」は出てこないが、
基本的には同じことを、ごくおなじみのことばで言っているのだ。
こうした思想体系では、苦しみと無知の根本原因は、
人格(身体―感情―精神)の習慣化したパターンとの自己同一視にあるとされ、
そのせいで万物と一体の高次自我(霊魂)、
私たちの核心にある存在と連携しそこなうことになる。
あらゆる遊離感は、
私たちの核心にある存在と一体となっていないことにともなって生じるものなのだ。
進化の目的は「全一者(神)の理法」をゆがめるものを、
ことごとく取り除くこと―すなわち、意識にとどまる障害物を片付けて、
無限性を十二分に実感することだ。
煎じ詰めれば、
全一性を実感するとは、無我と空と同じことで、
究極の目標は、意識が清澄になって、十全な宇宙への覚醒に至ることだ。
「悟り」のうちにさしあたって、
いちばん肝心なのは、聡明な無限性への導入となることだ。
スコット・マンデルカー
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
比較的、仏教も正しく理解されているようです。
仏教国の日本人よりも、欧米仏教徒の方が、その真髄を捉えているとは情けないことです。
仏教によると、苦しみと不満の原因ばかりか、
再生(六道輪廻)の原因も無知と貧欲とされる。
噛み砕いて言えば、私たちは自分の「真の本質」を知らずに、
自己と宇宙について、間違った考えにしがみついているということになる。
いちばん問題なのは、
「私たちが自分の考えを固く信じ込んでいる」ことだ―それは自分自身についても、
いわゆる客観的現象についても、いや、何についてもそうなのだ!
私たちは、自分なりの事象の解釈を事象自体の本質とさえ思い込んでいる。
哲学ではこれは「物象化」と呼ばれる。
要するに「抽象概念を具体的な事物に変えること」で、
仏教徒の目から見れば、私たちは生の体験から固定慨念をつくり出す場合、
常にこうした転換を行なっていることになる。
これは夢のうちに生きると呼ばれ、
十全な悟りを開いた人を除けば、
誰もがやはりある程度まで迷妄のうちに生きるということだ。
禅宗でも重要な経典『般若心経』にあるように、
名目と形態(物質的存在と観念)は、
どちらも実は、確かたる自性(独自の本質)のない空である、と仏陀は説いた。
要するに、一切の物質的存在は空のうちにあるがままにあり、
私たちが名づけるとおりに存在するのではないということだ。
私たちの定義づけは、
合意で成り立つこの「地上世界の現実」ではたしかに価値があるが、
その霊的なパワーは限られている。
言い換えるなら、自分を知るためには、
自分を忘れなければならないということなので、
自己を徹底的に拡大させてみることでしか「自己救済」はできない。
同じように、
(仏の四十八願)一切衆生の救済が成就するには、すでに救済されていると悟ることだ。
言うまでもなく、こうした教えは、
いずれも仏教の無我の根本義から出てくることで、
私たちのありのままの姿、すなわち実相は、
どんな二元論的な概念でもつかめないということだ。
「愛だけでは十分ではない」のだ。
誤った見方、
仏教徒が「執着」と呼ぶもの(私たちが抱きつづける迷妄)を捨てようとするなら、
智慧も必要だ。
西洋の形而上学は別の見方を用意する。
西洋哲学では、「無我」や「空」は出てこないが、
基本的には同じことを、ごくおなじみのことばで言っているのだ。
こうした思想体系では、苦しみと無知の根本原因は、
人格(身体―感情―精神)の習慣化したパターンとの自己同一視にあるとされ、
そのせいで万物と一体の高次自我(霊魂)、
私たちの核心にある存在と連携しそこなうことになる。
あらゆる遊離感は、
私たちの核心にある存在と一体となっていないことにともなって生じるものなのだ。
進化の目的は「全一者(神)の理法」をゆがめるものを、
ことごとく取り除くこと―すなわち、意識にとどまる障害物を片付けて、
無限性を十二分に実感することだ。
煎じ詰めれば、
全一性を実感するとは、無我と空と同じことで、
究極の目標は、意識が清澄になって、十全な宇宙への覚醒に至ることだ。
「悟り」のうちにさしあたって、
いちばん肝心なのは、聡明な無限性への導入となることだ。
スコット・マンデルカー



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オレオレ!オレだよ、名無しだよ!!
通りすがりですが。
いつから日本は仏教国になったんだ?八百万の神々がおわす神国ですよ。
なんつって。
たしか仏教って公式に悟りを開いたのは仏陀だけですよね。なのに何故悟りも開いてないような弟子が勝手に経典の解釈とかしてるんですか?
いつから日本は仏教国になったんだ?八百万の神々がおわす神国ですよ。
なんつって。
たしか仏教って公式に悟りを開いたのは仏陀だけですよね。なのに何故悟りも開いてないような弟子が勝手に経典の解釈とかしてるんですか?
2011/02/15 Tue 12:24 URL [ Edit ]
無碍の一道
オレオレ!オレだよ、名無しだよ!!さま。
コメントありがとうございます。
日本が仏教国になったのは、
聖徳太子の時代からだと認識しております。
本地垂迹説などもありますね。。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9E%82%E8%BF%B9
悟りには、高低があるとは思いますが、
釈尊の悟りにまで到達した仏弟子はいないでしょうが、
ある程度の悟りを開いた人はいると思います。
キリスト教ではそのようにして、異端をつくり迫害をしてきたのですが、仏教は寛容なので、
いろいろな思想実験を容認してきました笑
日本仏教の殆どが仏説とはかけ離れたトンデモ説ですね。。。。
でも、それが真実ではない、とは言えないと思います!
コメントありがとうございます。
日本が仏教国になったのは、
聖徳太子の時代からだと認識しております。
本地垂迹説などもありますね。。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9E%82%E8%BF%B9
悟りには、高低があるとは思いますが、
釈尊の悟りにまで到達した仏弟子はいないでしょうが、
ある程度の悟りを開いた人はいると思います。
キリスト教ではそのようにして、異端をつくり迫害をしてきたのですが、仏教は寛容なので、
いろいろな思想実験を容認してきました笑
日本仏教の殆どが仏説とはかけ離れたトンデモ説ですね。。。。
でも、それが真実ではない、とは言えないと思います!
2011/02/17 Thu 20:50 URL [ Edit ]
オレオレ!オレだよ、名無しだよ!!
通りすがりの無礼な若輩者にコメントありがとうございますm(_ _)m
なるほど。仏陀まで悟りを開いていなくても教えを伝え、説教する事ができるわけですね!
空海や、最澄、法然、蓮如など多くの高僧がいますものね。
でも、キリスト教は悟というものが無いので、宣教師がちゃんとその教えを理解してさえいればいいというものとは異質ですから、一概に比較は出来ません。
それに、法華宗の様に法華宗宗教団体の見ならず他宗派までも弾圧し批判した宗派もありますので、一概に仏教が寛容だとは言えないような…
そもそも、日本は天照大御神の子孫たる天皇が治める国であると戦前まで言っていたわけですから、仏教国であるという前提がおかしいですね。
日本は古来より八百万の神がおわすというしそうがありますので、仏教もまたひとつの神として伝来した当初は認識されており、それはキリスト教が伝来した時にも当てはまります。
つまり、真に寛容なのは日本神道であって仏教ではないのではと思います。
また、毘沙門天などに代表される仏は他宗教の神々を迫害し、釈迦如来の支配下に置いた結果ですから、全てにおいて寛容であるとは言えないでしょう。
本地垂迹説などは、仏教が神道を支配下におくための説であり、その結果日本の仏様はやたらめったら増えましたし、寺院の中に神社がある形となりました。
有名なところで言えば、東大寺内の春日大社がいい例です。
しかし、これは逆のパターンもあり、南宮大社などの大きい神社には神宮寺が併設され、神道が仏教を支配下におこうとした事も言えますので、神道も時代を経るごとに寛容ではなくなっていた時期もあるのでしょね。
ただ、現在も天皇を国家元首にしているわけですから、神道国という事はあっても(それすら怪しいとは思いますが)仏教国であるとは言えないでしょう。
人間宣言によって天皇と神道は分離されたとは言え、天皇は現在でも神道の長である地位は形式上残っていますから。
まぁ、私は無宗教国家だと思っていますが(笑)
長々と、無礼な物言いすみません。
最後に、確かにおっしゃる通り、日本の仏教は仏説とはかけ離れたトンデモ説だというご指摘はご尤もだと思います。
建築美としての社寺は素晴らしい物があるんですけどねぇ。
なるほど。仏陀まで悟りを開いていなくても教えを伝え、説教する事ができるわけですね!
空海や、最澄、法然、蓮如など多くの高僧がいますものね。
でも、キリスト教は悟というものが無いので、宣教師がちゃんとその教えを理解してさえいればいいというものとは異質ですから、一概に比較は出来ません。
それに、法華宗の様に法華宗宗教団体の見ならず他宗派までも弾圧し批判した宗派もありますので、一概に仏教が寛容だとは言えないような…
そもそも、日本は天照大御神の子孫たる天皇が治める国であると戦前まで言っていたわけですから、仏教国であるという前提がおかしいですね。
日本は古来より八百万の神がおわすというしそうがありますので、仏教もまたひとつの神として伝来した当初は認識されており、それはキリスト教が伝来した時にも当てはまります。
つまり、真に寛容なのは日本神道であって仏教ではないのではと思います。
また、毘沙門天などに代表される仏は他宗教の神々を迫害し、釈迦如来の支配下に置いた結果ですから、全てにおいて寛容であるとは言えないでしょう。
本地垂迹説などは、仏教が神道を支配下におくための説であり、その結果日本の仏様はやたらめったら増えましたし、寺院の中に神社がある形となりました。
有名なところで言えば、東大寺内の春日大社がいい例です。
しかし、これは逆のパターンもあり、南宮大社などの大きい神社には神宮寺が併設され、神道が仏教を支配下におこうとした事も言えますので、神道も時代を経るごとに寛容ではなくなっていた時期もあるのでしょね。
ただ、現在も天皇を国家元首にしているわけですから、神道国という事はあっても(それすら怪しいとは思いますが)仏教国であるとは言えないでしょう。
人間宣言によって天皇と神道は分離されたとは言え、天皇は現在でも神道の長である地位は形式上残っていますから。
まぁ、私は無宗教国家だと思っていますが(笑)
長々と、無礼な物言いすみません。
最後に、確かにおっしゃる通り、日本の仏教は仏説とはかけ離れたトンデモ説だというご指摘はご尤もだと思います。
建築美としての社寺は素晴らしい物があるんですけどねぇ。
2011/02/18 Fri 02:08 URL [ Edit ]
オレオレ!オレだよ、名無しだよ!!
通りすがりの無礼な若輩者にコメントありがとうございますm(_ _)m
なるほど。仏陀まで悟りを開いていなくても教えを伝え、説教する事ができるわけですね!
空海や、最澄、法然、蓮如など多くの高僧がいますものね。
でも、キリスト教は悟というものが無いので、宣教師がちゃんとその教えを理解してさえいればいいというもので、本質的に異質ですから、一概に比較は出来ません。
それに、法華宗の様に他宗教団体のみならず他宗派までも弾圧し批判した宗派もありますので、一概に仏教が寛容だとは言えないような…
そもそも、日本は天照大御神の子孫たる天皇が治める国であると戦前まで言っていたわけですから、仏教国であるという前提がおかしいですね。
日本は古来より八百万の神がおわすというしそうがありますので、仏教もまたひとつの神として伝来した当初は認識されており、それはキリスト教が伝来した時にも当てはまります。
つまり、真に寛容なのは日本神道であって仏教ではないのではと思います。
また、毘沙門天などに代表される仏は他宗教の神々を迫害し、釈迦如来の支配下に置いた結果ですから、全てにおいて寛容であるとは言えないでしょう。
本地垂迹説などは、仏教が神道を支配下におくための説であり、その結果日本の仏様はやたらめったら増えましたし、寺院の中に神社がある形となりました。
有名なところで言えば、東大寺内の春日大社がいい例です。
しかし、これは逆のパターンもあり、南宮大社などの大きい神社には神宮寺が併設され、神道が仏教を支配下におこうとした事も言えますので、神道も時代を経るごとに寛容ではなくなっていた時期もあるのでしょね。
ただ、現在も天皇を国家元首にしているわけですから、神道国という事はあっても(それすら怪しいとは思いますが)仏教国であるとは言えないでしょう。
人間宣言によって天皇と神道は分離されたとは言え、天皇は現在でも神道の長である地位は形式上残っていますから。
まぁ、私は無宗教国家だと思っていますが(笑)
長々と、無礼な物言いすみません。
最後に、確かにおっしゃる通り、日本の仏教は仏説とはかけ離れたトンデモ説だというご指摘はご尤もだと思います。
建築美としての社寺は素晴らしい物があるんですけどねぇ。
なるほど。仏陀まで悟りを開いていなくても教えを伝え、説教する事ができるわけですね!
空海や、最澄、法然、蓮如など多くの高僧がいますものね。
でも、キリスト教は悟というものが無いので、宣教師がちゃんとその教えを理解してさえいればいいというもので、本質的に異質ですから、一概に比較は出来ません。
それに、法華宗の様に他宗教団体のみならず他宗派までも弾圧し批判した宗派もありますので、一概に仏教が寛容だとは言えないような…
そもそも、日本は天照大御神の子孫たる天皇が治める国であると戦前まで言っていたわけですから、仏教国であるという前提がおかしいですね。
日本は古来より八百万の神がおわすというしそうがありますので、仏教もまたひとつの神として伝来した当初は認識されており、それはキリスト教が伝来した時にも当てはまります。
つまり、真に寛容なのは日本神道であって仏教ではないのではと思います。
また、毘沙門天などに代表される仏は他宗教の神々を迫害し、釈迦如来の支配下に置いた結果ですから、全てにおいて寛容であるとは言えないでしょう。
本地垂迹説などは、仏教が神道を支配下におくための説であり、その結果日本の仏様はやたらめったら増えましたし、寺院の中に神社がある形となりました。
有名なところで言えば、東大寺内の春日大社がいい例です。
しかし、これは逆のパターンもあり、南宮大社などの大きい神社には神宮寺が併設され、神道が仏教を支配下におこうとした事も言えますので、神道も時代を経るごとに寛容ではなくなっていた時期もあるのでしょね。
ただ、現在も天皇を国家元首にしているわけですから、神道国という事はあっても(それすら怪しいとは思いますが)仏教国であるとは言えないでしょう。
人間宣言によって天皇と神道は分離されたとは言え、天皇は現在でも神道の長である地位は形式上残っていますから。
まぁ、私は無宗教国家だと思っていますが(笑)
長々と、無礼な物言いすみません。
最後に、確かにおっしゃる通り、日本の仏教は仏説とはかけ離れたトンデモ説だというご指摘はご尤もだと思います。
建築美としての社寺は素晴らしい物があるんですけどねぇ。
2011/02/18 Fri 02:11 URL [ Edit ]
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