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2011.02.17
下化衆生の精神
大乗仏教の根本精神である「上求菩提・下化衆生」。
自らには至高の悟りを求め、他には普くより多くの人々を救っていく。
仏教には、この両輪が無ければなりません。
「下化衆生」とは、単に法を説くだけかということであるが、
宗教の歴史はそうではなかった。
下化衆生の「衆生」とは、聖職者のことではなく、
職業をもって社会生活を営んでいる一般の人々をさしている。
「下化」とは、そうした人々を教化することである。
それゆえ、その教化活動は社会的、政治的行動にならざるを得ない。
そのために、言論・出版・思想・結社の自由に加えて、
政治活動の自由がなければならないのだ。
さらに言えば、宗教は人間一人一人の魂を個別的に救済することにあるとしても、
それが、例えば十万人集まれば、一つの力になる。
十万の人々がそれぞれの社会生活なり家庭生活を通じて、
教えに基づいた改革行為をすることになったときには、
一種の「世直し運動」に発展する。
これは既存の社会形態、いわゆる定住社会的なものからみれば、異端にならざるを得ない。
だから、新宗教は常に異端なのだ。
そして、こうした新宗教は、
眠りこけて死者儀礼だけを行っている墓守仏教とは違って、
社会的活動が非常に活発であり、
改革運動、大衆運動、民衆運動、政治運動へと発展していくという形態をもっている。
これは既存の社会生活者にとっては脅威であり、そこで弾圧が起こる。
宗教とは本来そういうものである。
それを欠いた宗教は、もはやその名に値しない。
仏教では、「上求菩提」と言って、
自分の精神浄化のために、自ら求めて、優れた教えを説く人から教化を受ける。
しかし、自分が得た菩提心というものが、
本当に発揮されるのは、「下化衆生」の実践を通してであって、
その行動形態を「菩薩道」と呼んでいる。
自分が得た菩提心をもって、民衆を教化するのである。
だから、仏教でいう菩薩行は明確に社会行動となる。
苦しんでいる人々を助ける、そういう行動がなければ人を救ったことにはならない。
「衆生済度」、「利他行」である。
あらゆる宗教の根幹には、それがある。
宗教は決して形而上学のみの問題ではない。
だから釈尊は「私の教えは二足尊の宗教だ」と言った。
二本の足で大地を踏みしめている宗教という意味である。
空中に浮遊しているような宗教でもなければ、観念の宗教でもない。
それが釈尊の説いた教えの基本なのである。
釈尊自身も、
そして多くの弟子やアショーカ大王もそうであったが、
後に大乗仏教を生み、つくりだした優れた宗教的指導者たちが何を説き、
どんな行動をとったか、さらには最澄や空海、あるいは道元、法然、親鸞、
日蓮らをみれば一目瞭然、それは政治参加ということである。
「宝行王正論」は、大乗経典の代表的な政治指南書といっていいが、
内容は司法、立法、国防、経済政策にまで及んでいる。
釈尊は『遊行経(大パリニッバーナ経)』のなかで、
国が滅びる七つの条件を国王にはっきりと教えている。
次元は違うが、日本においても武田信玄の快川和尚だとか、
足利尊氏の夢窓国師だとか、
武将や将軍たちは、宗教指導者に国を治める方法を教わっている。
これは宗教団体の問題ではないが、明かに宗教者の政治参加である。
先に挙げた『遊行経』の例でも分かるように、
仏教の世界では釈尊の在世中においても、
例えば国内において慈悲の精神に基づく政治を実行せよとか、
仏教徒による国家指導ということがはっきりと出てくる。
釈尊は、バラモン教徒が顧問をしている場合、
そのバラモンの顧問に対して、
国家をどのように治めなければならないか、ということを教えているのだ。
政治論を説いた大乗経典は数多くある。
釈尊が当時の権力者に、政治とは「かくの如くに行え」と指導したものだ。
その根幹は何かといえば、
「政治はおのれを捨てて、他人のために尽くすこと」、
「極致は慈愛なり」という原理である。
さらに、これらの経典では、経済政策、治安、司法、国防問題にまで言及し、
その具体的な方法論を説いており、
そういう行動をとることが宗教者の任務、
あるいは信仰者の正しい在り方であることを示している。
宗教とは決して、「来世」だけの問題を教えるものではない。
「現世」の苦悩を救い、解決するために説かれた。
現世の苦悩は何によって引き起こされるかといえば、
そのほとんどが政治、経済、家族、人間関係によって引き起こされる。
それゆえ、それらの現実の問題が解決されない限り、
この世に生きている人間の苦悩は解消されない。
にもかかわらず、政治活動は一切行ってはならないということになれば、
宗教者にとっては、苦悩を苦悩のまま放置しておくということに等しい。
宗教は、即現実であり、現実は宗教を必要としている。
例えば、職業に関していえば、
キリスト教社会にあっては、こんな職業観が定着している。
「人間は誰しもが何らかの職業をもっている。
この職業は、神によって与えられたものだ」とキリスト教社会では考える。
この考え方に立てば、職業を大事にするということは、
「コール(呼びかけ)」なのである。
「お前はこの職業で生きよ」と神が私に呼びかけ、
授けてくれたもの、という捉え方である。
そうした考えが基本にあって、そこから、マックス・ウェーバーの、
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という名著も生まれた。
だから「カルヴィニズム」と呼ばれるプロテスタンティズムの教えに基づいて、
人々は日常生活を営み、社会活動、政治活動を行うわけである。
やがて、その流れを汲んだ人たちが、信仰の自由を求めてメイフラワー号に乗り、
アメリカ大陸に渡って、教会をつくり、政治を行い、
町をつくってアメリカの基礎を築き、フロンティアスピリットの国家を建設した。
それがなければアメリカという国家は生まれなかった。
だから、大統領が就任式で、聖書に手を置いて宣言するのは当然のことだ。
それは、人間の最もレベルの高い宗教的領域のなかに自らをおいて、
その純粋な精神的信仰性をもって政治を行う、ということを誓うものである。
そういった歴史的経験をまったくもたない日本人は、
世界のなかでも、異質な国家、民族となっている。
ただあるのは「天皇制宗教」だけである。
日本における現実の問題―政界の腐敗構造にしろ、
あるいは経済界の堕落にしろ、いわゆるモラルハザードと呼ばれる現実を見たときに、
いかに日本という国が社会的倫理性を欠いた国家であるかがよく分かる。
仮に、宗教によって、彼らに倫理性をもたせようとすれば、
「いや、それは政治行動だ、宗教は人間の内面にとどめるべきだ」ということになる。
これはつまり、彼らのアンチモラル(反道徳)の政治と、
それによって苦悩を受ける人々の痛みを放置しろ、と言うことに等しい。
これは下化衆生の考え方に立つ宗教者にとっては許せないことだ。
したがって、現実的苦悩の解決を図っていくために、
自分の考え方を言論表現によって伝え、
さらにそのことについて論争し、集団をつくり社会活動を展開し、
広報活動を行い、政治活動に入っていく自由を要求することは当然のことなのである。
宗教改革があったからこそ近代国家が生まれ、
近代的な市民社会の自由や参政権が保障された。
すなわち、
宗教は政治を背負っている人々の社会行動と密接不可分の関係にあるということである。
「宗教は内面の問題に限り、比叡山や高野山の山上で門を閉じていろ」などと、
国家が宗教を規制する権限は、人類にはあり得ない。
それはまさに戦前のファシズムであり、
ヒトラーやスターリン時代への逆行になってしまう。
なぜ権力者が宗教者を憎むかといえば、
宗教者が民衆の声を背景に、政治的自由を要求するからである。
宗教者にそれを要求するだけの行動力がなければ、権力者が怯えることはない。
いまでは、ほとんどの国で政治的自由が獲得されているが、
日本だけはそれを禁止しようとしている。
そんな愚かなことを考える時間があるのなら、
政治家たちは、
国民に尊敬されるだけの倫理的規範を確立するために少しは努力すべきである。
それもしないで、政治と宗教を二つの領域に別けて垣根をつくったり、
宗教者の政治参加を締め出そうとするのは、本末転倒である。
宗教活動で最も重要かつ決定的なことは、
その自由が社会的に保障されることである。
宗教活動の自由とは、言論・出版・思想・集会・結社の自由であり、
政治参加の自由ということなのである。
したがって、宗教的動機から政治に参加する、
あるいは宗教的動機をもった多くの人々が結社をつくって政治に参加する、
これは当然のことである。
高瀬広居「日本仏教の再生を求めて」
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
自らには至高の悟りを求め、他には普くより多くの人々を救っていく。
仏教には、この両輪が無ければなりません。
「下化衆生」とは、単に法を説くだけかということであるが、
宗教の歴史はそうではなかった。
下化衆生の「衆生」とは、聖職者のことではなく、
職業をもって社会生活を営んでいる一般の人々をさしている。
「下化」とは、そうした人々を教化することである。
それゆえ、その教化活動は社会的、政治的行動にならざるを得ない。
そのために、言論・出版・思想・結社の自由に加えて、
政治活動の自由がなければならないのだ。
さらに言えば、宗教は人間一人一人の魂を個別的に救済することにあるとしても、
それが、例えば十万人集まれば、一つの力になる。
十万の人々がそれぞれの社会生活なり家庭生活を通じて、
教えに基づいた改革行為をすることになったときには、
一種の「世直し運動」に発展する。
これは既存の社会形態、いわゆる定住社会的なものからみれば、異端にならざるを得ない。
だから、新宗教は常に異端なのだ。
そして、こうした新宗教は、
眠りこけて死者儀礼だけを行っている墓守仏教とは違って、
社会的活動が非常に活発であり、
改革運動、大衆運動、民衆運動、政治運動へと発展していくという形態をもっている。
これは既存の社会生活者にとっては脅威であり、そこで弾圧が起こる。
宗教とは本来そういうものである。
それを欠いた宗教は、もはやその名に値しない。
仏教では、「上求菩提」と言って、
自分の精神浄化のために、自ら求めて、優れた教えを説く人から教化を受ける。
しかし、自分が得た菩提心というものが、
本当に発揮されるのは、「下化衆生」の実践を通してであって、
その行動形態を「菩薩道」と呼んでいる。
自分が得た菩提心をもって、民衆を教化するのである。
だから、仏教でいう菩薩行は明確に社会行動となる。
苦しんでいる人々を助ける、そういう行動がなければ人を救ったことにはならない。
「衆生済度」、「利他行」である。
あらゆる宗教の根幹には、それがある。
宗教は決して形而上学のみの問題ではない。
だから釈尊は「私の教えは二足尊の宗教だ」と言った。
二本の足で大地を踏みしめている宗教という意味である。
空中に浮遊しているような宗教でもなければ、観念の宗教でもない。
それが釈尊の説いた教えの基本なのである。
釈尊自身も、
そして多くの弟子やアショーカ大王もそうであったが、
後に大乗仏教を生み、つくりだした優れた宗教的指導者たちが何を説き、
どんな行動をとったか、さらには最澄や空海、あるいは道元、法然、親鸞、
日蓮らをみれば一目瞭然、それは政治参加ということである。
「宝行王正論」は、大乗経典の代表的な政治指南書といっていいが、
内容は司法、立法、国防、経済政策にまで及んでいる。
釈尊は『遊行経(大パリニッバーナ経)』のなかで、
国が滅びる七つの条件を国王にはっきりと教えている。
次元は違うが、日本においても武田信玄の快川和尚だとか、
足利尊氏の夢窓国師だとか、
武将や将軍たちは、宗教指導者に国を治める方法を教わっている。
これは宗教団体の問題ではないが、明かに宗教者の政治参加である。
先に挙げた『遊行経』の例でも分かるように、
仏教の世界では釈尊の在世中においても、
例えば国内において慈悲の精神に基づく政治を実行せよとか、
仏教徒による国家指導ということがはっきりと出てくる。
釈尊は、バラモン教徒が顧問をしている場合、
そのバラモンの顧問に対して、
国家をどのように治めなければならないか、ということを教えているのだ。
政治論を説いた大乗経典は数多くある。
釈尊が当時の権力者に、政治とは「かくの如くに行え」と指導したものだ。
その根幹は何かといえば、
「政治はおのれを捨てて、他人のために尽くすこと」、
「極致は慈愛なり」という原理である。
さらに、これらの経典では、経済政策、治安、司法、国防問題にまで言及し、
その具体的な方法論を説いており、
そういう行動をとることが宗教者の任務、
あるいは信仰者の正しい在り方であることを示している。
宗教とは決して、「来世」だけの問題を教えるものではない。
「現世」の苦悩を救い、解決するために説かれた。
現世の苦悩は何によって引き起こされるかといえば、
そのほとんどが政治、経済、家族、人間関係によって引き起こされる。
それゆえ、それらの現実の問題が解決されない限り、
この世に生きている人間の苦悩は解消されない。
にもかかわらず、政治活動は一切行ってはならないということになれば、
宗教者にとっては、苦悩を苦悩のまま放置しておくということに等しい。
宗教は、即現実であり、現実は宗教を必要としている。
例えば、職業に関していえば、
キリスト教社会にあっては、こんな職業観が定着している。
「人間は誰しもが何らかの職業をもっている。
この職業は、神によって与えられたものだ」とキリスト教社会では考える。
この考え方に立てば、職業を大事にするということは、
「コール(呼びかけ)」なのである。
「お前はこの職業で生きよ」と神が私に呼びかけ、
授けてくれたもの、という捉え方である。
そうした考えが基本にあって、そこから、マックス・ウェーバーの、
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という名著も生まれた。
だから「カルヴィニズム」と呼ばれるプロテスタンティズムの教えに基づいて、
人々は日常生活を営み、社会活動、政治活動を行うわけである。
やがて、その流れを汲んだ人たちが、信仰の自由を求めてメイフラワー号に乗り、
アメリカ大陸に渡って、教会をつくり、政治を行い、
町をつくってアメリカの基礎を築き、フロンティアスピリットの国家を建設した。
それがなければアメリカという国家は生まれなかった。
だから、大統領が就任式で、聖書に手を置いて宣言するのは当然のことだ。
それは、人間の最もレベルの高い宗教的領域のなかに自らをおいて、
その純粋な精神的信仰性をもって政治を行う、ということを誓うものである。
そういった歴史的経験をまったくもたない日本人は、
世界のなかでも、異質な国家、民族となっている。
ただあるのは「天皇制宗教」だけである。
日本における現実の問題―政界の腐敗構造にしろ、
あるいは経済界の堕落にしろ、いわゆるモラルハザードと呼ばれる現実を見たときに、
いかに日本という国が社会的倫理性を欠いた国家であるかがよく分かる。
仮に、宗教によって、彼らに倫理性をもたせようとすれば、
「いや、それは政治行動だ、宗教は人間の内面にとどめるべきだ」ということになる。
これはつまり、彼らのアンチモラル(反道徳)の政治と、
それによって苦悩を受ける人々の痛みを放置しろ、と言うことに等しい。
これは下化衆生の考え方に立つ宗教者にとっては許せないことだ。
したがって、現実的苦悩の解決を図っていくために、
自分の考え方を言論表現によって伝え、
さらにそのことについて論争し、集団をつくり社会活動を展開し、
広報活動を行い、政治活動に入っていく自由を要求することは当然のことなのである。
宗教改革があったからこそ近代国家が生まれ、
近代的な市民社会の自由や参政権が保障された。
すなわち、
宗教は政治を背負っている人々の社会行動と密接不可分の関係にあるということである。
「宗教は内面の問題に限り、比叡山や高野山の山上で門を閉じていろ」などと、
国家が宗教を規制する権限は、人類にはあり得ない。
それはまさに戦前のファシズムであり、
ヒトラーやスターリン時代への逆行になってしまう。
なぜ権力者が宗教者を憎むかといえば、
宗教者が民衆の声を背景に、政治的自由を要求するからである。
宗教者にそれを要求するだけの行動力がなければ、権力者が怯えることはない。
いまでは、ほとんどの国で政治的自由が獲得されているが、
日本だけはそれを禁止しようとしている。
そんな愚かなことを考える時間があるのなら、
政治家たちは、
国民に尊敬されるだけの倫理的規範を確立するために少しは努力すべきである。
それもしないで、政治と宗教を二つの領域に別けて垣根をつくったり、
宗教者の政治参加を締め出そうとするのは、本末転倒である。
宗教活動で最も重要かつ決定的なことは、
その自由が社会的に保障されることである。
宗教活動の自由とは、言論・出版・思想・集会・結社の自由であり、
政治参加の自由ということなのである。
したがって、宗教的動機から政治に参加する、
あるいは宗教的動機をもった多くの人々が結社をつくって政治に参加する、
これは当然のことである。
高瀬広居「日本仏教の再生を求めて」



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