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仏教でいう「無我」の本当の意味を、現代の仏陀が説明されています。
まれなることであります。




キリスト教などでは、「霊と肉とはまったく別なものである。
そして、肉に奉仕するものは地獄的なものであり、霊に奉仕するものは天国的なものだ」
という単純明快な説明をすることがよくあるのです。
「肉体に奉仕するというのは、すべて、サタンの王国に奉仕するのと同じであって、
霊に奉仕することこそ、神の国に奉仕することなのである」というような考え方です。
しかし、それだけでは、多少、単純すぎるきらいがあります。
霊的な存在というのは、もちろん、だいじな存在なのですが、
この霊的な存在は、究極の人間存在そのものではないのです。
霊的な存在も、まだ霊としての肉体である「霊体」というものをまとって、
魂修行している段階であって、それは人間のほんとうの姿ではありません。
ほんとうのものというのは、そうした姿形あるものではないのです。
もっと究極にいくと、ほんとうに自由自在な、
個性を持ったエネルギー体としてものがあるだけです。
仏性という、それ自体がほんとうに仏と同じような性質を持っているものが、
どの人間にもあり、それが霊界では霊的な姿形をまとって生活しています。
そして、地上に出てくると、それがさらに肉体というものをまとっているだけであって、
肉体も乗り物であれば、霊体も一種の乗り物なのです。
ほんとうは、もともとそうした個性あらしめるエネルギーがあるだけなのです。
詳しくいえば、魂あるいは霊といっても、まだ根本的なものではなく、
さらにその奥があるということです。
すなわち、霊の究極にあるものとして、
「不滅の知性」「不滅の力」というものを述べています。
実際は、人間の姿形をした幽霊のようなものではないのです。
姿形のあるものを「魂」と言うこともありますが、それだけではなくて、
「不滅の知性」「不滅の力」としての性質を持っているものが霊存在なのだ、
ということを知っていただきたいのです。
 




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