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2008.05.13 永遠の哲学
「永遠の哲学」とは、人類に共通した普遍的な真理という意味の言葉で、
数学者ライプニッツが、すべての宗教の根底にあるものだ、として用いました。

哲学者ケン・ウィルバーは、この「永遠の哲学」という概念を発展させ、
全ての宗教は、その洞察において同一である、だけではなく、
様々な深さ、階層が存在する、という「新・永遠の哲学」を唱えています。

イギリスの作家、オルダス・ハクスリーは、
世界の神秘主義者の言説を取り上げ、この概念をまとめています。

ハクスリーの「永遠の哲学」のまとめを抜粋します。





「永遠の哲学」を研究するには、いわば下から―実践と道徳から―始めてもよく、
逆に上から―形而上的な真理を考察すること―から手をつけてもよい。
いや、もう一つ、
真ん中から―心と物、行ないと考えとが出会う心の中の中心点から―始めてもよい。
下から入る門は、もっばら実践的な師たち―たとえば仏陀のような、
思弁というものに用がなく、人間の心に燃える貪欲と怒りと無知の恐るべき業火を、
消し去ることを主に問題としていた人たち―が好む入り口であり、
上から入る門は、考え、思弁することが天職である人たち、
すなわち生まれながらの哲学者や神学者たちが通る門であり、
真ん中の門は、「霊的宗教」と呼ばれてきたものを唱導する人たち―すなわち、
インドの敬度な瞑想者、イスラーム神秘主義のスーフィー、
中世後期のカトリック神秘家、さらにプロテスタントでは、デンク、フランク、
カステリオとか、エヴェラール、ジョン・スミス、
初期のクエーカー信徒や、ウィリアム・ローといった人たち―が、
「永遠の哲学」に参入する門として通ったものなのである。


あらゆる存在の神的な「根拠」は霊的な「絶対者」であり、
それは推論的な思考によって説明しようとしても、いわく言いがたいものなのだが、
人間が直接体験をして現実化することもできるものなのである。
この「絶対者」はヒンドゥー教やキリスト教の神秘用語で表現すれば無形の神である。
人間の最終到達点、人間存在の究極理由は、
神的な「根拠」と一体になってその「根拠」を知ることにほかならない。
その知は、「自己を死なせ」て、いわば神の入ってくる余地を、
設けようとする覚悟ができている人だけに訪れることができる。


人生の、神的で永遠な充実を得ることができるのは、
欲望、利己、自己中心的な考えや感情、
願いや行動という部分的でしかない分離生活を意識的に棄て去った人だけである。
苦行、あるいは意識的に白己を死なせることは、
キリスト教やヒンドゥー教や仏教など、世界各地の大宗教や小宗教の経典に、
必ずといってもよいくらい、妥協しない強固さをもって記されている。


宇宙は事象の絶えることのない継続である。
が、その底にあるのは、「永遠の哲学」によると、
神的な「霊」の時間を超えた今にほかならない。


洋の東西を問わず、万人の意見が一致している点が一つある。
肉体内にある命は、救いや解脱を実現するための絶好の機会を提供してくれる、
という点である。カトリックの教理も、大乗仏教の教義も、
死後の肉体から離れた状態になった魂は、功徳を身につけることができず、
ひたすら煉獄または浄罪界にあって過去の行ないがもたらす結果を受苦する、
と主張しつづけている、という点で共通しているのだ。



「永遠の哲学」




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