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2008.05.20 霊的なるもの
本当に価値あるものは、目に見えないものにあります。

世界は粒子によって組み立てられた、構造物ではありません。

イデアといわれる実在世界が背後に存在し、
それから流出した世界が、この物質世界であるのです。

真・善・美や愛、神仏もまた、目には見えません。

全て霊的なるものなのです。


かつて、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、
東京帝国大学で、生徒達にこのように講義しています。


われわれが、いかなる宗教を信じるにせよ信じないにせよ、
近代科学の果たした貢献の一つは、
これまで物質的で実体があると思ってきたものがすべて、
その本質において霊的なものであることをまったく疑問の余地なく証明したことである。
たとえわれわれが、幽霊をめぐる古風な物語やその理屈づけを信じないとしても、
なお今日、われわれ自身が一個の幽霊にほかならず、
およそ不可思議な存在であることを認めないわけにはいかない。
われわれの知識が増大するにしたがって、宇宙の神秘もいっそうその重さを増し、
われわれの身の上にのしかかり、ますます怖ろしいものとなってくる。
それは、霊的な神秘といえるものである。あらゆる偉大な芸術は、ある程度、
この宇宙の解きがたい謎というものをわれわれに喚起する。
偉大な芸術作品には、つねになにか霊的なものが宿っているといわれるゆえんである。
それが、われわれの内部にひそむ、無限なるものに関わるなにかに触れるのである。
偉大な思想を読むとき、すばらしい彫像や建築物や絵画を目にするとき、
また美しい音楽に耳傾けるとき、心と精神には感動の戦慄が走る。
その感動はちょうど、人々が霊や神を視たと思ったときに感じる戦慄によく似ている。
だからこそ、どんなに知識が増えようとも、
世界は依然として超自然をテーマとした文学に歓びを見出すのである。
この先何百年経とうが、その事実は変わらないであろう。
霊的なものには、必ず真理の一面が反映されている。
だから、いわゆる幽霊の存在がいくら信じられなくなったとしても、
それが表わす真理にたいする人間の関心まで減少することはないのである。

霊的なものにたいする感覚を持たない人間が、
なにかに生命を吹きこむことなどできるはずもないのだ。
たとえ、それが歴史書であれ、演説草稿であれ、
たとえわずか一ぺ―ジにすぎなかろうとも、そうである。
人々の魂に触れることを可能ならしめているものは、
言葉そのものであることをよく知っておく必要がある。
しかもそれを知るためには、同じように言葉によってしか触れられない、
霊的なるものを、みずからの内に保有していなければならないであろう。





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