FC2ブログ
ガンジーやユングも尊崇していたといわれる、
インドの20世紀の聖者ラマナ・マハルシの言葉です。



人間の真性質は幸福です。幸福は真の自我に植えつけられた天性です。
幸福を求めるのは、真の自我を無意識的に求めているのです。
真の自我は亡びるものではありません。
だからそれを見出した人は、終りなき幸福を見出します。


すべての思想の初一歩は、各人の心の中に在る原始的思想で、我という思想です。
この思想が生れて来た後、さまざまな思想がおこって来ます。
心の中に最初の個人的代名詞「我」というものがおこって来た後、
第二の個人的代名詞「汝」というものが生れて来ます。
「我」というものの糸を知的に辿っていくと、その源泉に戻れば、
「汝」という思想も、「我」という思想も消えてしまいます。これは経験されることです。


私という感覚は肉体や脳髄の人間にこびりついています。
人が初めて、真の自我を知ると、
自己の存在の深い根底から何ものかが盛り上って来て、その人を促えます。
その何ものかは心の背後にあって、永遠無限神聖なものです。
ある人はそれを天国といい、ある人はそれを魂といい、
またある者はそれを涅槃といいます。
どういう名称だろうと、お好み次第につけてよいのです。
これが起って来ると、人間は自我を失ったのではなくて、自我を発見したのです。


人は、真我の質問に出発しなければ、
不安懐疑が、一生涯彼につきまとうことになります。
世の中には様々と知識を集める大知力の人達がいます。
この人達に人間の神秘を説くことが出来るか、
自己に打ち勝っているか聞いて御覧なさい。
彼等は恥入って頭を垂れてしまいます。
自分が何ものであるかということを知らないで、
様々な事を知ろうとしても何の役にも立ちません。
人々は真我の探求を避けて、何を計画しても無駄です。


真理はインド人にも欧州人にも同じことです。
俗悪生活に鈍している者には、この道を辿ることが難しいですが、
それでも人間はこの困難を克服しなければなりません。
瞑想裡に湧き出て来た活泉の流れは、善習慣により、
瞑想の実修によって持続されます。
その活泉に汲んで、自分の仕事も活動も出来るのです。
瞑想と外的活動の間には区別がありません。
「我は誰であるのか?」
人がこの問題を瞑想して、自分は肉体でもなく、頭でもなく、
欲望でもないことを知り始めたなら、
甚深な自己存在の根底から答えはおのずから出て来ます。
深遠な実現と調和して解って来るものです。





クリックして愚僧の活動に御協力ください。
スポンサーサイト



Secret

TrackBackURL
→http://souryonotakurami.blog46.fc2.com/tb.php/341-7f51294b