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小泉八雲という名で、日本に定住し、
日本文化を世界に紹介したラフカディオ・ハーンは、
怪奇文学者として有名でありますが、
仏教研究者でもあったことはあまり知られていません。

ハーンは、
明治期の日本に多大な影響を与えたスペンサーの思想に傾倒していたのですが、
その思想を超えるものを、仏教に見出していたと思われます。

ちなみに、
スペンサーは「進化」という概念を提唱しましたが、唯物論者ではありませんでした。

ハーンの仏教に関する論稿です。




いまだに欧米には、涅槃というものが仏教徒にとっては、絶対の無と同じもの
―つまり、完全な寂滅を意味する、という考えが広く行なわれている。
この考えはまちがっている。
ただし、それはそのなかに半分の真理が合まれているために、誤まられているのである。
この半分の真理は、あとの半分の真理と一つにならなければ、なんの価値もないし、
またおもしろ味もない。だいいち、納得がいかない。
ところで、そのあとの半分の真理というのは、ふつうの西欧人の頭では、
てんで不審を立ててみることすらできない代物なのである。
なるほど、涅槃は消滅を意味する。
しかし、この個の消滅ということを、霊魂の死滅と解釈すると、
涅槃というものの概念と食いちがってくるのである。
あるいはまた、涅槃というものを、インドの汎神教が予言したように、
有限が無限のなかに没滅することと解釈すると、
その観念は、およそ仏教とは縁のないものになってしまうのである。
涅槃というものは、そういうものではなくて、個人の感覚・感情・想念の消滅を意味する。
―つまり、意識ある個性の究極の解体を意味する。
―いいかえれば、「我」ということばに包合されるいっさいの物の寂滅を意味する。
‥‥と、こういえば、
これなら仏教の教えの一面を正しく言いあらわしたことになるのである。

涅槃に入るのは、感覚や意識を持った「自我」ではないのである。
「我」とは、無量無尽の煩悩の一時的な集合物にすぎない。
それは魂の殻であって、いずれは破れるにきまっている泡沫にすぎない。
つまり、「我」とは、「業」から生まれたもの―というよりも、
仏教徒の主張するように、「我」がすなわち「業」なのである。

人間という不完全な存在の、偽れる意識のかげに、―覚、識、想の及ばぬところに、
無自覚にかくれ住みながら、
―われわれが霊魂と呼んでいる袋(じつは、その袋は、
煩悩という厚地の布で織ってある袋なのだが)のなかに包まれて、
そこに永遠にして神聖犯すべからざる、絶対の実在があるのである。
これは霊魂でもなく、また個性でもない。
これこそは、我所なき「全我」―「無我の大我」、つまり、
「業」のなかに胎蔵している仏性なのである。
あらゆる仮象の自我(我相)のなかに、この仏性が住んでいる。
あらゆる生類のなかに、この無量無尽の智慧が眠っているのである。
この智慧は発達もせず、埋れたなりで感得もされず、
知られもせずに眠っているのであるが、
さいごにはいっさいの無窮から目ざめて、煩悩の怪しい蜘蛛の囲を打ちはらい、
ついに肉の蛹を破って「空間」と「時間」の究極の征服に入るべく、
運命づけられているものなのである。

人格をもった神の信念が消滅して、個人の霊魂を信ずる信仰が持てなくなって、
最も宗教心に篤い人たちが、これまで宗教と呼んできたものにそっぽを向け出し、
世界的な懐疑心が倫理上の向上精神に日一日と圧力を加えて行くという、
こんにちのような知性的進化の時代にあたって、
光りはまさに東方からさしいでてきているのである。
われわれはそこに、われわれのそれよりも古い、洪大な信仰、
他のいかなる体系よりもすぐれた道徳体系を教え、
今後いかなる積極的な知識形態も打ち破ることのできない希望をもっている、
偉大な信仰に直面していることに気づくのである。


「仏の畑の落穂」




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