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最近になって、
学問として、スピリチュアリティーが扱われはじめました。
特に、医療の分野では急速にスピリチュアルな考え方が広まりつつあります。

何故なら、終末期医療などでは、
患者のスピリチュアルペイン(深い心の痛み)を緩和するためには、
「肉体の死は終りではない」とする考え方が、
非常に大きな役割をはたすことが確認されているからです。

終末期医療では、スピリチュアルケアは必須の項目なのです。

唯物論的な思想を持った学者は、
日本人にはスピリチュアルの意味が分かりにくい、とよく言いますが、
理解したくないというのが本音でしょう。

スピリチュアルとは、単に霊魂のことなのですから。

仏教者はこうした風潮に対して苦肉の策で、
スピリチュアルとは、鈴木大拙氏の「日本的霊性」で言われている、
無意識に潜む大地に育まれた平等心というような「霊性」であって、
霊魂などではない、と言っています。

しかし、大拙氏には、
スウェーデンボルグの思想に共鳴していたという、
心霊主義者としての側面もあったことを見過ごしてはなりません。

これからは、スピリチュアル仏教の時代です。(?)

京都大学大学院人間・環境学研究科兼こころの末来研究センター、
カール・ベッカー教授は、こう指摘されています。


西洋医学の調査でも、臨死体験者の多くは「光の神」を見たという報告があります。
あまりに数が多いので、
医師はやむをえず「figure of light」(光の姿)という語を作らざるをえなくなりました。
しかしこれとよく似た現象と言葉は、中国・韓国・日本の仏教には千数百年も前から、
すでにあったのです。仏教の来世観の一つである浄土思想です。
そこでは、絵巻や往生伝などで、阿弥陀如来の来迎が数多く描かれています。
阿弥陀とは「無量光」という意味です。
臨死体験は決して酸素不足や高熱、麻酔に還元できる幻覚ではなく、
むしろ健常な患者ほど体験する確率が高いことも分かってきました。
つまり我々は、死んで何もかも無になる、灰になるのではありません。
牢屋である肉体から解放されて、もっと明るい、
さらなる可能性と試練を潜めている別の次元に接する可能性の方が大きいのです。
「死はすべての終わり」という発想は仏教に反しているということです。
日本の仏教学が唯物論的になってしまったのは、
19世紀末、唯物的な西洋哲学を導入した影響でもあります。
日本人のほとんどはクリスチャンではなく、仏教的な他界観を持っています。
そうした日本人に合った日本的・仏教的スピリチュアルケアが、
求められていると思われます。  





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