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ヘルマン・ベックは、19世紀ヨーロッパの代表的な仏教学者です。

ベックは、欧米における仏教受容や、
明治期日本の仏教再解釈の潮流に、大きな影響を与えました。

彼は、パーリ語、サンスクリット語、チベット語を理解し、
膨大な文献を渉猟して、仏教の霊的真実を闡明した大学者です。

その慧眼を見てみましょう。




仏典に神や悪魔や精霊などがたびたび登場するのは、
ブッダがそれらと会話する霊性を備えていた証拠であり、
弟子達にたびたびそのことを語っていたのであろう。
西洋の学者たちの中にはブッダを哲学者としてとらえ、
その霊性を排除しようとする動きがあるが、とんでもない間違いである。


仏陀が「無神論者」であるという見解は今でも広くおこなわれている。
仏陀のように、霊的=超感覚的なものに傾倒していた人物を、
現代言うような意味で無神論者とよぶとはとんでもない話である。
霊的な存在である神々とは、瞑想によってしたしく交わることができるのであって、
仏陀もこのことをいつも語っている。
しかしまた、最高の神的なもの、または霊的なものをも、
仏陀はあからさまに否定はしなかった。
他の宗教ではかの最高の神的=霊的なものについてさまざまに説かれるが、
それは仏陀にあっては沈黙なのであった。
この沈黙は、われわれに多くのことを語ることができるものであり、
ただの否定的なものではなくて、仏陀の沈黙が、
一般にそうであるように、積極的な一面を持つものである。
かつまた仏陀も時には、言語は不明瞭でありながらも、積極的な意味で、
最高の超感覚的なものについて述べ、感覚世界の諸現象はその中から現れ出て、
また、その懐中に戻って行くことができる、といっている。


仏陀は決して哲学者ではなくて、道の師であった。
人類の霊的指導者のうちで、
仏陀ほどに、あらゆる哲学的思弁を徹底的に拒否したものはめずらしい。
それにもかかわらず、時代が移るにつれて、「仏教哲学」が発展して来た。
どの宗教の歴史を見ても、人類なり、民族なりの持ち分の中から、
開祖の本来の意図からたいそうかけはなれたものが発展してくる。
仏陀はいくつかの形而上学の問題に答える場合に、
論理学の立場から見ると矛盾するようではあるが、
ありとあらゆる相反する選言支を同時に拒否し、否定するのを常とした。
ところが、仏教哲学の体系の中でも、もっとも重要で、かつ、もっとも有名なもの、
すなわち、大乗に属する中観派はこの仏陀の態度に関連している。
そこで、本来、反哲学的な仏陀の教えの中に含まれていたその胚芽から、
この「哲学」がいわば必然的に生じてきたことを確認するとき、
この特異な「哲学」が明らかにされるのである。


近代になって、また最近、西洋での仏教の宣伝が行われているが、
神智学や、それに似た動きを別にすると、たいていは、
仏教は合理主義の体系、「無神論の道徳哲学」であると言い、
近代の有力な世界観とすぐにも調和し、
この意味で、西洋の思想の展開において宗教の代用につかえるものだと考えている。
このような見解は仏教の本質を誤解するもはなはだしい。
仏教は西洋でいうような無神論でもなく、また、ただの哲学的合理主義でもない。
仏教はその本質において哲学とはまったく異なったものであって、
近代の唯物論とはまったく関係のないものである。
かつまた、偏見にとらわれず学的に研究すれば明らかであるように、
ほんとうの仏教は近代の神智学の動きと同じでもない。
いくらか接触する点があるとしても本質上べつのものである。


「仏教(上)・(下)」




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