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仏教学者は、宗教者でもあるべきなのです。
無責任な学者の自説によって、どれだけ仏教の真意が歪められてきたことでしょう。

ひきつづきましてベックの仏教観です。




高次の領域と結びつき、そこにある宇宙全体に広がる意識をふたたび獲得することが、
原初の神聖な科学、ヨーガの目的だった。
しかし、ヨーガは、今日の意味での抽象的で理論的な科学ではなかった。
すでにヨーガという、軛につなぐこと、馬具をつけること、
緊張(精神力の活動的な緊張)を意味する言葉が、実践的な労苦をあらわしている。
しかし、その実践は、インド人特有の科学性によって支えられている。
その科学性は今日のような自然の事実に立ち止まるものではなく、
超感覚的領域にまで探求を進めていくものであった。
この努力すべては、インド人にとっては自然なものであった。
インド人は遺伝をとおして、
特別に発展する可能性のある超感覚的な器官を内に有しているからである。
その器官によって霊的な力を探求することが、インド人には可能だったのである。
インド人にとって問題だったのは、
「どのようにして地球と物質的身体の深部の力を支配する法則性から解放されて、
高みのエーテル領域を支配する法則性とのつながりを見出すか」ということであった。
そして、彼らが見出した法則性は、深みの領域の法則性と同様に厳密であり、
情け容赦のないものであった。
古代のインド人にあっても、
この法則性の要求を満たすことは、しだいに少なくなってきた。
彼らは引きずり降ろすような欲情の力、個人的な虚栄に屈していった。
このようにして、古代のバラモン教は堕落していった。
ヨーガはますます堕落し、苦行へと退化した。
かつてはヨーガにおいて、霊的な力が地上的なものを形成し、
変容させうることが知られていた。
しかし、そのような能力は、だんだん信用されなくなっていった。
人間がまったく自己の内面に引きこもる道のみが純粋なものとみなされていった。
このようにして、ヨーガはますます一面的な神秘主義になっていった。
ここにブッダが登場する。ブッダはバラモン教の退廃、ヨーガの堕落を見た。
彼がおこなった宗教改新は、ヨーガのもっとも純粋な精神の上に構築された。
魂に道を示し、妨げとなる欲情を克服することにブッダは努めた。
偉大な秘儀参入者であったブッダは、
霊的な力が地上的なものをどのように形成し、変容させうるかを知っていた。
そして、彼は地球の深い力を知っていた。
その力について、ブッダは涅槃におもむくまえに、愛弟子アーナンダに語っている。
そして、大地の力そのものが師の決意に力強く答えている。
偉大なブッダは、こうして孤独に霊的な世界、偉大な涅槃におもむく。
ブッダが教え、ブッダがみずから、ただ五百年、
すなわち大きな時代の転換期までしか純粋に保たれないと告げた道は、
一面的な神秘主義にとどまった。
仏教徒は、人間から地上的なものをもぎ取る法則性の領域にとどまった。


仏陀はふつうの、
経験的な思考(われわれに言わせると、頭脳に拘束された思考)を超越し、
克服することそのものを使命としている。
それだからこそ、あらゆる思弁を拒否し、
かつまた、宇宙と人間との最高の秘密は抽象的、
哲学的な思考では達することができないと宣言したのである。
感性に拘束された低級な思考が陥っていて、
どうすることもできない矛盾を解決するものは、
論理的思考ではなくて、ただ高次の意識(悟り)のみである。

 
仏陀は、そのころの民衆にとって、その時代にとって、
空虚な概念形式にとらわれることが危険であることを、承知していた。
仏陀はすべての神学者の論争、すべての思弁を好まず、
苦痛に満ちた『教義の密林、教義の原始林、教義の痙攣、教義の喜劇』、
から心霊を救い出そうと欲し、現実的、瞑想的、内面的な体験の道へ、
低い意識とあらゆる形式の悟性的思考とを克服する道へと、心霊を向けさせ、
ただ、実践的、教育的な目的を達成するために、
有効適切であると思われた限りにおいてのみ、
概念なり、抽象的にまとめた『真理』なりを添えてやることにした。
仏陀はその真理をまとめる場合に、インドの諸派の述語を引用することもあったが、
そういうときにも、仏陀は、そういう最高の神的なもの、
または霊的なものを言い表す概念をその説明形式から省いた。
他の諸派で積極的な最高概念を用いるところを、仏陀はいわば空白として残しておいた。
この空白は、仏教のもっとも深い本質にもとづくものであるが、
これが多くの誤解を生ずる原因となった。    


仏教によれば、人間の実体は五つの主要部分(五蘊)にわかたれる。
肉体の現象(色)、感受(受)、知覚意識(想)、潜在意識ないし潜在的構想力(行)、
心霊的意識(識)がそれである。
これら五つの主要部分は、いずれもすべて「無我」であると言われている。
何度となく死に変わり生まれ変わる間に一貫して本体であるのは識ではあるまいか、
という想定は仏陀によってきっぱりと否定されている。
(この場合「不変」という語によく注意を払うべきで、
識が不変なる自己という統一体となって、
さまざまな生涯を結びつけるという点を拒否するのである。)
この識という原理が死の際に肉体を去り、
そしてその原理が誕生ないし受胎の際に、
霊体と共に再び母胎に入り込むことはしばしば言われているが、
その原理それ自体が縁起の法則に従い、かつ無常なものであるのだから、
仏教の説によれば「我」ではない。
瞑想の際に人間としての総体の中からいわば、
高度な霊体としての三つの「自我」が出てくるが、
これと蘊とのあいだには一定の関係がある。
これら三つの「自己」はいずれも本来的な真実の自我として体験されるものではなく、
瞑想のある段階において見いだされた「自己」は、次のより高い段階で克服される。
仏教の瞑想はいわば絶対的自我の如きものにまで迫ることはない。
そして仏教の無我説はこのような事情から理解されるべきものである。


「仏教(上・下)」




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