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2008.06.26 黙想の眼
いつからか科学と宗教は分離されてしまいました。

そのおかけで私達は、世界は乾いた平坦なものとしか見えなくなりました。

しかし、真実の世界は、慈愛に満ち、ホロン的な広がりを見せています。
それを認識するためには、霊性の開発が不可欠です。

そして、真実の世界が認知されていくためにも、
科学と宗教は統合されなければなりません。

霊性哲学の第一人者ケン・ウィルバーの主張です。




私たちが第一に見逃すことができないことは、
偉大な伝統の創始者はほぼ例外なく、
一連の深遠な霊的体験を経験していることである。
彼らの啓示、直接的神秘体験は紅海を割るとか、
豆の栽培法とかについての神話的宣言ではなく、
『神なるもの』(スピリット、空性、神性、絶対者)の直接的な理解であった。
その頂点における理解は、
個とスピリットの直接的合一ないし同一性に関わるものだった。
その合一とは知的な信念として頭でとらえるのではなく、
直接体験として生きられるべきものである。
それは、まごうことなき存在の「最高善」、
途方もない合一の中に没入している幸運この上ない魂に大いなる解放、
再生、改心、悟りをもたらす直接認識であり、
基盤、ゴール、源泉、世界全体の救いとしての合一である。
そうした霊性の先駆者が各々弟子たちに与えたのは、 
一連の神話的ないし教条的な信念ではなく、
「私のことを思い起こし、これをしなさい」という一連の実践、指示、手本であった。
「これをせよ」―指示―というのは、特定のタイプの黙想的祈り、
ヨーガについての広範な指示、特定の瞑想実践、実際の内面的例示である。
この神聖なる合一を知りたければ、これを行なわねばならない、ということである。
こうした指示によって、
弟子の中に進化の先駆者の霊的体験や霊的データが再現された。
その後の内面的実験の過程(数十年、時には数世紀を越える)で、
それらの指示やデータは頻繁に改良・洗練され、
初期的ないし予備的な手法やデータはより鋭敏な観察の下で精緻化された。
小乗仏教から大乗仏教への成長発展、
さらには大乗から壮麗な金剛乗への成長発展、
ハシディームとカバラによるユダヤ神秘主義の見事な成熟、
初期ヴェーダから並はずれたシャンカラ、
超える者なきラマナ・マハリシまでの偉大なヒンドゥーの開花、
プラトンからプロティノスまでの六世紀にわたる純化などは、
そうした多数の実例の一部である。
ところが、特定の霊的伝統がこうした実験的探究のプロセスを放棄した瞬間、
直接的証拠や経験、変容させる力を欠いた、
単なる教条や神話的宣言に硬直化し始めた。
そして、輝かしい霊的な光輝を放つ大いなる解放の中に、
自我を超越させるのではなく、不死をもくろむ孤立した自我を、
手を変え品を変え慰めるだけになった。
結論は明白だと思われる。
黙想の眼を捨て去れば、
宗教には理知の眼―宗教が近代哲学によって八つ裂きにされている領域―と、
肉の眼―宗教が近代科学によってさんざん笑いものにされている領域―、
しか残されていないのだ。
宗教に唯一固有のものが何かあるとすれば、それは黙想に他ならない。
このように、宗教特有の永続的で偉大な強みは、
それが核心において霊的経験の科学だということなのだ。


「科学と宗教の統合」




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