FC2ブログ
2008.07.14 偉大なる無
仏教でいう無とは、霊魂が無いということではありません。

科学の知見が、仏教の本質に近づいているのに、
一方の僧侶は、虚無に捉われているのは、なんとも皮肉なことです。

サイエンスライターのK・C・コール氏は、こう言います。

こと無の認識について、仏教、
それも禅ほど真剣に考えた「分野」は、おそらくないのではあるまいか。
無を理解しそれに到達することは、
禅では魂の平和と深い悟りに通じる道として求められ、称揚される。
この無は虚無主義とは何の関係もない。
仏教で言う「空」には、量子的真空同様ポテンシャルが漲っている。
それはすべての入ったヒョウタンであり、
限りない可能性とポテンシャルでキラキラした「虚」である。
からっぽどころか、それは何かを待ちうけているうつわなのだ。
ほんとうに心をからにしなければ、悟りも魂の成長もありえないと仏教は教える。
空と満とは相反するものではなく、ともにさらに大きい現実の一部なのだ。
それは同じものの二つの局面であり、
どちらも互いの存在のために、なくてはならないものである。
仏教徒によると、無であってこそ何かを容れる余地ができるのだから、
心を空にする努力を重ねるのだ。
すでに溢れるほど一杯の盃には、それ以上何も入れることはできない。
空白な心は、普通の脳がかもしだす日常の騒音のなかでは、
とうてい会得できない洞察を誘う。
禅の修行は心のなかの蜘蛛の巣を取り払い、曇った眼鏡を拭うように、
鼻先にあるものさえ見えなくするもろもろの邪魔物をぬぐい去るのだ。
無に満ちた心だけが、すべてを受け容れることができるのである。
禅の境地に探りを入れた心理学も、これに共感を抱くようになった。
ニューヨーク大学の神経病理学者マーク・エプスタインは、
治療に瞑想を取り入れており、心は無を受け容れてこそ、
はじめて静まることができるのだと結論している。

「無の科学」




クリックして愚僧の活動に御協力ください。
スポンサーサイト



Secret

TrackBackURL
→http://souryonotakurami.blog46.fc2.com/tb.php/508-96bc315a