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2008.07.24 小乗も大乗も
唐代の中国僧、義浄は、単身インドに渡り、
つぶさにナーランダ僧院における僧侶の生活の様子について記録しています。
これは、大変貴重な資料であり、当時の信仰のありようを知ることができます。

現代では、小乗と大乗はどちらが優れているかで論争しているありさまですが、
義浄によると、7世紀のインドには、大乗と小乗の仏教信仰があるが、
相違点よりも一致点の方が勝っていて、どちらも共存していると指摘しているのです。

釈尊の霊的影響力、久遠実成の仏陀を信じていた当時には、
近代の仏典の文献学的、考古学的研究による、
合理的解釈の産物である大乗非仏説など、あろうはずもありません。




さて、インド仏教の現勢について触れておく。
現在インドで優勢な大衆部・上座部・根本説一切有部・正量部のこの四部派の中で、
大乗と小乗の区分は定まっていないのである。
北インドや南海の国は、もっぱら小乗である。
一方これに対し、我がシナの国は、意は大乗教に存る。
そして、これよりほかの諸処では、
大乗教・小乗教がまじえ行なわれているというのが、
世界の仏教の大乗・小乗の現況、その真実の姿なのだ。
ところで大乗・小乗について、このおもむきを考えてみると、
大乗も小乗も律蔵の教えによる検校、すなわち律検は異ならず、
ひとしく五篇(波羅夷・僧残・波逸提・提舎尼・突吉羅)を制しているのだし、
大乗も小乗も、同じく四諦(苦・集・滅・道諦)を修めているのである。
もし菩薩を礼拝して大乗経を読誦するのならば、これを大乗と名づけるのであり、
このことをしなければ、これを小乗と呼ぶというただそれだけの事なのである。
そしていう所の大乗とても二種があるにすぎない。
その一つは中観、二つは瑜伽である。
中観の教えは、俗諦には「有」と見えていても真諦には「空」であり、
本質そのものはうつろにして幻のようなものであるとするものであり、
喩伽の教えは、外は「無」であるが内は「有」であり、
事、皆ただ「識」あるのみとするのである。
しかし、大乗も小乗もこれらは並びにみな釈迦の聖教に遵っているのである。
されば、大乗と小乗でいずれが是でありいずれが非だというのだろうか?
大乗も小乗も同じく涅槃を契っているのである。
されば、大乗と小乗で、何れが真であり何れが偽だというのだろうか?
大乗も小乗も、その教えの意は、同じく煩惑を断ち除き、
衆生を苦しみから引き抜き救うところに在るのである。
しかし、シナではどうして大乗だ、小乗だと色分けし、
広くごたごたをおこしていて、さらに迷いを増そうとしているのだろうか?
大乗だろうが小乗だろうが、仏の教えに依って行ずれば、
ともに彼岸に昇ることができるのであり、大乗だろうが小乗だろうが、
仏の教えを棄て、仏の教えに背けば並びに迷いの海に溺れてしまうのである。
シナとは異なり、インドでは大乗・小乗の両方が双つながら行なわれており、
道理として大乗・小乗の両者がそむき競うことなぞは無いのである。

「南海寄帰内法伝」



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