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日本ニューエイジ界を代表する浅野信氏は、
日本最大の伝統仏教教団である浄土真宗に対して極めて的確な提言を行っています。

そこには、霊覚者にしか解りえない真実が述べられています。

お坊さんこそが傾聴すべき意見です。




親鸞の時代、あの末法史観のもとで、皆、大変な時代を実際生き抜いていました。
単に、末法史観があったと言うだけでなく、
実際末法の様相を呈していたという意味です。
そのようななかにあって、したくないことでもどうしてもしなくてはならない、
時には悪いことでもせざるを得ない、とても自力の修行を行えない、
そのような厳しい状況のもとで、その時代に一人でも多くの人に、
神仏の救いの手が差しのべられて、機会が開かれ、
希望を持って元気よく溌剌と生きられる道は無いものかどうかと言うことで、
その時代状況に合わせて、簡易な仏教としての浄土門、
即ち他力の方法としての「南無阿弥陀仏」と言う、専修念仏が法然上人によって、
打ち立てられたのです。それを受けて、更に親鸞が深め、
そしてそれがだんだん辺境の地や各層にまで拡げられて行ったのです。
多くの人々へ救済の対象が広げられました。
そのような時代背景や時代の要請というのがあって、
初めてそれが出てきたということです。
親鸞は法然を受けて、それを実行に移し、その流れが見事に実現して行きました。
しかしながらこの現代において当時の方法論をそのまま繰り返し述べたり、
それをそのまま適用したりするということは、どうしてもそぐわない面が出てきます。
今でも普遍的に言い得ること、役立つこと、行うとよいこと、正しいことと、
一方もはや時代に合わずそぐわないこと、この両方があるということです。
彼の時代はどうしてもそれまでの自力の修行型が難しくなって来たので、
他力の簡易仏教が求められ、日蓮の方法も、道元の方法も、法然や親鸞の方法も、
一つの簡便なものを選びとったものでした。
総合的なものではなく、一つのものだけを選んだ簡便な方法です。
それが当時に相応しく、またそうでもないと、とてもやれなかった時代でした。
今は、違います。今は、寧ろ全く対照的に総合化ということが、
求められている時代なのです。しかもそれがただ多様化するだけでなく、
多様の自由性を許し尊重しながらも、
全体が一つでもあるという捉え方が今の精神としての要請だということです。
そのもとで一つひとつが尊ばれ、真に発揮され全体の為に活かされ役立てられて行く、
そのようなことが今の時代の要請なのです。
必ずその時代に出てくるものは、必要あって役目があり、出て来ます。
だからと言って、出てくるもの全てが完壁で正しいという意味ではありません。
しかし必ず時代の要請で出てくるのですから、今の時代に出てくる、
例えば新宗教とか、ニューエイジ運動、その他様々な動きがあって、
それらをある立場や観点からのみ簡単に批評を加えたり、
それらをどこかで冷ややかに見たり軽蔑したりというのがあったとしたら、
それは傲慢というべきでしょう。

「親鸞の心」




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