神なき近代日本において、
不屈の精神で、神の教えを説き続けた内村鑑三氏は、預言者エレミヤの再出でした。

非戦論をつらぬき、教会制度を批判し無教会主義を唱えるなど、
戦い続けた孤高の生涯をおくりました。

近代日本に、このような強烈な信仰心を持つ人物がいたのは驚きです。




私はまことに奇跡を信じます。奇跡を信ぜずしてキリスト教は信ぜられません。
否、奇跡を信ぜずして、いかなる宗教も信ぜられません。
私はいまだ世に奇跡のない宗教のあるのを知りません。
しかるに今の人は奇跡を信ずるの困難なるよりして、あるいは理学宗とか、
あるいは倫理宗とか唱えて、奇跡のない宗教を造らんといたしまするが、
しかし、かかるものが宗教の用をなさないことは誰でも知っております。
私の考えまするに、奇跡を排斥しまするならば、
それと同時に宗教を排斥するべきであると思います。
奇跡を否定しながら宗教の必要を説くのは、飲食の不要を唱えながら、
健康の幸福を説くの類であると思います。
奇跡は宗教の滋養であります。この養汁ありてこそ、
宗教なる生物は存在しかつ繁殖するのであります。
奇跡を取り除いてごらんなさい、宗教という宗教はみな死んでしまいます。

奇跡の内容とは霊の活動であります。
もし霊なるものの実在を認めますならば、
奇跡はいやでも信じなければならなくなります。
霊そのものが天然以上のものであります。
またもし霊も天然の一部分であると言う人がありまするならば、
さらば奇跡もまた天然現象の一種でありまして、
これについて何の疑いをはさむの必要もなくなります。
もちろん、この事は哲学上の大問題であります。
自由意志を有する霊なるものありや否や、この問題を充分に討究せんとすれば、
スピノザ、ライプニッツ、カント、ヘーゲル、ショーペンハウエル、
その他の大哲学者をことごとく呼びきたらなければなりません。
しかしながら、これかならずしも大哲学者の判断を待たなければ、
解決のできない問題ではないと思います。
自由意志とは自由意志であります。すなわち外界何物の束縛をも受けずして、
その上に超然たるものであります。人はパンのみをもって生くる者ではない。
正義、真理、神、愛、これは全世界よりも尊いものである。
人が身を処するにあたって、彼は風の方向や世の潮流に眼を注いではならない。
霊には霊界の法則があって、
人はこの「自由の律法」に従ってのみ、さばかるる者であると。
これは自由の精神であります。自由意志を哲学的にどう説明しましょうとも、
自由とはかかるものであります。
そうして自由のあるところには奇跡をなし得るの力があります。
人が人たるの特権をふるう時に、彼は奇跡の可能力を疑いません。
彼が神の子たることを忘れて、たんに天然の子であるとのみ思う時に、
彼は奇跡の有無について彼の心思をひじょうに悩ますのであります。

奇跡をおこなうの能力は、これは献身犠牲、
自己を忘れて神の栄えと人の善とを計らんとする者にのみ与えられるものであります。
奇跡は、愛とこれに伴う威権とのしるしであります。
世に愛にまさるの権能はありません。
そうして、そのまことに宇宙を動かすの能力なることを示さんために、
神は愛をもって充満する人にとくにこの能力を賜うのであります。


「キリスト教問答」



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