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2008.08.25 苦痛の意味
人生には何故、苦しみが多いのでしょうか?

地上にこのような苦しみが溢れているのは、
神などいない証拠だと、よく言われます。

しかし、これは、霊的な真実を知らないことによる誤解にすぎません。

すべては、大いなる神の慈悲のもとにあるのです。




われわれは、より悪い状態からより良い状態へ、
またはより良い状態から最良の状態へと楽に成長するわけではない。
われわれは、労苦、犠牲および難儀を代償にして、
自分の不完全さから必死に抜け出すのである。
これらは一見すると不幸なことのように思われるかもしれないが、
しかし結局は神の愛と本質的に矛盾していない。
何であれ結局はわれわれのより神聖な性質の実現を助けるものは、
たとえそれが苦痛であろうと良いことであり、何であれそれを妨げるものは、
たとえそれが愉快であろうと悪いことなのである。
もし個人的な悲しみがこの結果に向かう傾向があれば、
それは実は良いことであり、もし個人的な幸福がそれを妨げるなら、
それは実は悪いことなのである。
このことを信じないがゆえに、なぜ神の計画の中に苦しみと悲しみがあり、
なぜ神の意志の中に慈悲がないのかと言って、われわれは不平を訴えるのである。
どこにわれわれの真の善があるかをわれわれは知らず、
闇雲にエゴ、欲望、感情、または激情に駆られて、
真の善を架空の妄想的な善に取って代えてしまう。
その結果われわれは、まさに神の知恵が現わされつつある時に、
それへの信仰を喪失し、まさに神の配慮がわれわれに最も示されつつある時に、
神の無関心を最も恨むのである。
善と悪、およびそれから流れ出る幸福と不幸についての間違った観念にとらわれた、
利己的で無分別な習慣的態度を放棄するのに充分なだけの勇気を、
われわれが奮い起こすまでは、われわれは不必要に難儀を引き廷ばし、
増加させ続けるであろう。

もし手の持ち主に痛みという讐報を出すための神経系がなかったら、
偶然火の中に入れられた手に何が起こるか、想像してみるとよい。
手はすっかりだめにされ、永久に使いものにならなくなるであろう。
ここでは、やけどを負う痛みは、つらいけれども、
もし持ち主にその手を引っ込めるよう説得するなら、
実は変装した友の役を果すであろう。
苦しみが身体を生命の危険から守るかぎり、
それは物事の宇宙的計画の中で然るべき場所を持っているのである。
では、道徳的生活を守ることについてはどうであろうか? 
われわれの倫理的生活の現在の進化段階では、苦痛のほうが、
快楽によって占められる場所よりも、しばしばずっと有用な場所を占めている。
が、エゴイズムによって目をくらまされたわれわれには、この事実が見えない。
もし苦痛が、われわれのほとんどが陥っている理解の麻痺から、
われわれを目覚めさせるなら、それはりっぱなことをしたと言えるであろう。
プラトンは、罰せられるのが当然だった人間がそれを免れることは、
当人にとって不幸であるとさえ指摘した。
結局、罰はその当人を、悪いことをしてしまったという認識へと覚醒させ、
それによって彼の性格を浄化するかもしれないのである。
再び、人間の冷酷、
プライドおよび強欲が弱められるかもしれないのは、苦痛によってである。
というのは、それらが単なる言葉によって矯正されることは滅多にないからである。
例えば、膨張した「私」という感覚に対してカルマの補償的働きが加える苦痛は、
膿傷をメスで切開する外科医によって加えられる苦痛が罰ではないのと同様に、
実は罰ではない。


ポール・ブラントン「新カルマ論」




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