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最近また、
右左両陣営から注目されているパール判事ですが、
戦後間もない来日時の講演でこんなことを言っています。

少なくとも、彼は偽善的な平和主義者ではありませんでした。


私は日本のみなさん、ことに日本の青年諸君に、
非暴力の思想を充分深く研究してくださらんことをお願いする。
しかし、非暴力ということは、断じて怯懦ということではない。
「暴力と怯懦といずれを選ぶかと問われるなら、私は躊躇なく暴力を選ぶであろう」、
とマハトマ・ガンジーも喝破している。
非暴力ということは暴力以上の勇気を必要とする。
すなわち暴力を押しのけるだけの、
暴力者をしてついに暴力を放棄せしめるだけの力を必要とする。
そのための軍備こそ必要だ。
つまり人間の精神力の軍備、「魂の再軍備」を提唱したい。
この「魂の再軍備」こそ、武器による再軍備以上の非常なる決心を要求するであろう。
この道は決してなまやさしい道ではない。
私は日本国民がこぞって、この困難にして決意を要する、
平和手段による平和運動に挺身されることを祈ってやまない。
もはやわれわれは、戦争に導くような、武力による平和手段を信じてはいけない。
ローマ帝国をみるがいい。武力によって統一したローマは、武力によってほろぼされた。
武力による一時的な平和と繁栄は、かならず崩壊する運命にある。
われわれは人間の持っている高い精神を唯一の武器として、
一切の戦争の因子にむかって、激しい抗争をいどまねばならぬ。
すなわち人間の魂―人間の心の中に秘められている魂―という武器をもって、
あらゆる武力的紛争の中に敢然と戦わねばならぬ。
しかしながら、この非常なる決心をもつには、道徳的な力を必要とする。
しかして道徳的な力は宗教によってもたらされる。
宗教は人間に無畏の精神、すなわち畏れざる、恐怖観念なき、
正道を踏みて死すとも悔いなき大勇猛心を涵養する。
宗教なき国はほろび、宗教なき人間は怯懦となる。
したがって宗教のないところに、ほんとうの力ある平和の実践行動は起きてこない。
私は日本を旅行して非常に感心したのは、たくさんなお寺や神社のあることである。
そのたくさんのお寺や神社、そしてかくのごとくきれいな清楚にして荘厳な、
お寺や神社を持つ国は、世界のどこにもないのではなかろうかと思う。
日本がこのような立派な神社や寺院を持ったということは、
過去において日本に深い信仰があったことを証明する。
しかし現在におけるこれらのお寺や神社のありさまはどうか。
それは多く宗教心の対象であるというよりも、たんなる博物館ではないか。
教義を説き祈りをささげる場ではなくして、たんなる見せ物に堕しているのではないか。
かくのごとく、みなさんの祖先が、深い信仰心によって築きあげた見事な宗教の殿堂を、
みなさんがたんなる博物館にしてしまったということは、
祖先に対する背信であると同時に、宗教心の堕落を意味するものであると思う。
私は、現代日本人の心に、ふたたび宗教心がよみがえることを祈るものである。
どうかみなさんの生活の中に、宗教を生かしていただきたい。
これこそ日本の「魂の再軍備」の第一着のしごとであると確信する。

どうして僧侶や神職は、日本の次代をになう青年学徒に、
教義を説かないのか、人生問題を説かないのか。
人間の心のなかに眠っている宗教心をよび醒まそうとしないのか。
せっかくの施設と機会をもちながら、これが少しも生かされていないということは、
まことに残念なことであると思う。
きょうも私はある宗教の指導者と会って、こんなことを申しあげた。
「日本にはお寺や神社はあるが、宗教がない。
生活の中にとけこんでいない宗教、人生における精神生活の支柱をなしていない宗教、
そんな宗教はほんとうの宗教とはいえないと思う」と。

私はここで仏教の教義を説こうとするものでない。
ただ人間が信仰することによって、宗教をその生活の中に導入することによって、
凡欲下賤の子といえど、高い魂の把持者たり得るということをいいたかったのである。
この高い魂をもって、平和的手段による平和の獲得のために戦うということが、
私のいう「魂の再軍備」なのである。私はくり返し申しあげる。
みなさんの国は美しい国である。自然そのものが平和と愛の国である。
この美しい国をより美しくするために、宗教によってその魂を磨きあげていただきたい。
広大なる慈悲の精神、妥協なき正義の精神、何ものをも恐れざる無畏の精神、
この高められた精神によって、この美しい国を守っていただきたい。

「パール博士平和の宣言」




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