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『ナルニア国ものがたり』の著者であるイギリスの作家、
C・S・ルイス氏は、キリスト教神学者としても有名です。

彼は、近代合理主義に影響され、一度、無神論に陥りますが、
30歳ごろに回心体験を経験することになります。

その時の興味深い内面の葛藤を自叙伝より紹介します。




わたしが考えていた「神」や「霊」を真面目に信じていると、
全然新しい局面が展開するかも知れないという恐れがあった。
わたしはもはや哲学をもてあそぶことが許されない運命にあった。
わたしの「霊」がいろいろな点で「民衆の宗教の神」と異っているかも知れないと思った。
わが対戦者(神)は、そうした問題を顧みず、取るに足らぬこととして無視した。
論議しようとさえしなかった。ただこう言ったのである。
「わたしは主である。」「わたしはありてある者である。」「わたしは存在する。」
生来信仰心に篤い人たちは、
そうした啓示がいかに恐しいものであるかをなかなか理解できない。
愛想のよい不可知論者は、これを快活に「神についての人間の探求」だと評するだろう。
当時のわたしは、そんな風な言い方をされるよりも、
いっそ猫についての鼠の探求とでも言ってもらいたかった。
わたしは気狂いじみた望みだが、自分の魂は自分のものだと主張したかった。
それに楽しい思いをするよりも苦しみを避けることを切実に望んでいた。
なるべく負債を少くするように努めたのである。
超自然的な存在は、当初は禁制の酒のようなものだったが、
酒を飲みすぎた時とおなじで吐き気をもよおすようになった。
自分の哲学の方針に従って生きてゆこうとしても、
いろいろな思わぬ条件がついていることを知った。
世の道徳の理想を目標にしていれば、
耐えがたいほど苦しい目にあわないですむと思い、理知をはたらかすように努めた。
だが理想であったものが、厳しい命令に変った。
命令であれば、あれこれと詮議することができない。神はもちろん理性的な存在である。
しかし人間に対して没義道なことを要求しないだろうか。
それについてはどうとも言えなかった。
むしろ全面降伏、暗闇にむかってのひたすらな飛躍を求められた。
神は人間と安易な交渉をして取決めを結ぶような方ではなかった。
神が命ずることは、「すべてか無か」でさえなかった。
パスに乗っていて、わたしは鎧を脱ぎかけ、
自我の雪だるまが溶けはじめた時、新たな局面を迎えたのだと思う。
神の命令は、「すべてに賭けよ」というものであった。
わたしはモードリン学寮の個室にいて、一瞬仕事から気がそれた時、
こちらからは会いたいとは思わないのに、神がゆっくりと執拗にせまってくるのを感じた。
恐れていたことが、ついにやって来た。一九二九年の夏学期、わたしは降伏した。
神を神であると認め、ひざまずいて祈った。
その夜、英国中で最も意気上らぬ、不承不承納得した回心者だったろう。
その時のわたしは、旭日のように明々白々なことが理解できなかった。
その程度の回心者をもよしとし給う神の謙遜に思い及ばなかったのである。
放蕩息子が少くとも自分の足で家に帰った。
しかしもがいたり、あばれたり、憤慨したり、
何とか逃げだそうとして様子を伺ったりする放蕩息子を許して、
門を開く大いなる愛の神に対して、だれがそのことにふさわしい崇拝ができるだろうか。
神は人間に有無を言わさないということばが、つまらない人間に乱用されているので、
ぞっとする思いをしているが、これを正しく理解するならば、
そのことばは神の慈悲の深さを遺憾なく示している。
神の厳しさは、人間の優しさよりも情深い。
神が強制することは、人間の解放なのだから。

「喜びのおとずれ」




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