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2008.09.11 躓きの石
仏教を専門的に学ぶと、
どうしても「霊魂」の問題に悩まされることになります。


無我とは「霊魂」を否定しているということなのか?

輪廻する主体は「何」なのか?

「何」が生天するのか?


そして、多くの仏教徒がここで躓き、
近代的世界観とも合致する唯物論へと誘導されていくのです。


仏教の霊魂観がややこしく感じられる点について、
東北大学名誉教授の仏教学者、村上真完氏が的確に示しておられます。


インド思想史において、仏教の無我観の位置づけを試みてみたい。

第一に、仏教において輪廻転生を説きながらも、
「霊魂」の観念がない、ということは、思想史上では、
いまだ「霊魂」の観念が明確になる以前の、
古い生命観の延長において考えられるのか。
そして名色の再結合、または五蘊の相続という形で輪廻転生を説明するのも、
「霊魂」観念が明確でない思考法の延長上において理解できるのか。
これは検討を要する問題である。

第二には、仏教においても、心または識(vinnana)が、
霊魂の観念に近づいていくと考えられるが、その場合には、
その「こころ(霊魂)」が転変変化し、生滅しつつ、
いわば不連続の連続(即ち相続)をするだけではなく、
また『倶舎論』等に見るように、その「こころ」も、
諸の心理作用・心理状態(心所法)を伴なう複合体であるという点において、
他学派の「霊魂」観(アートマン、プルシャ、ジーヴァの観念)と著しい相違点がある。


「仏教の考え方」


「霊魂」という言葉に惑わされる必要はありません。

結局、「霊魂」というものも、独立不変のものではなく、
転変する複合体であって、本質的には神の光が分化したエネルギーなのです。




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