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世界の超一流の文豪は、
ほとんどが、「神」や「あの世」を題材にした作品を遺しています。

シェイクスピア、ダンテ、ゲーテ、トルストイ、ドストエフスキー、ユーゴー、
モーム、ディケンズ、バルザック、ロラン、ジイド、ヘッセ、とあげればきりがありません。

ようやく最近は、
日本の作家の作品でも、スピリチュアルな事象を扱うものが増えてきました。

歴史に名を残す作家は皆、霊的な直感に溢れていると言えます。

芥川賞作家の三浦清宏氏の優れた文学論です。




現実を超えたものを見、現実の奥にあるものを探りたい、という気持は、
昔から常に文学者の心の中にあったにちがいない。
文学とは言葉による現実との闘い、
そしてそれを超えようとする努力であった、と言っても、言い過ぎではあるまい。
しかし現実の超え方や、その目標などは、時代と共に大いに変ってきているようである。
我々はいま、遠い産業革命の落し子である実証主義の時代、
文学的に言えば、現実主義の時代の末期にある。
もうあちこち地盤沈下が眼立ちはじめ、地殻変動も起りはじめているにせよ、
大多数の者は依然としてそこから立ち去ることが出来ないでいる。
その基本的態度は、科学と同様、
あらゆることは事実によってしか証明出来ない、ということである。
精神的真実があるとしても、それは事実を描くことによってしか表現することは出来ない。
いや、事実の背後にそういうものがあるかどうかということにすら懐疑的であって、
科学者のように言葉の実験を繰り返しながら、何かが発見されるのを待つ。
そこに見出されるのは心理とか人間同士の関係の微妙さ、
あるいは存在の奥深さの暗示などであるが、
新しい真摯な発見に恵まれればよい方であって、
未消化の多量な事実のみが与えられるにすぎないことが多い。
文学の初期においては、しかし、
事実とその背後の関係とは、今よりもはるかにあいまいだった。
「オデッセイ」の冒頭が「詩神」への呼びかけによって始まっていることは、
よく知られているが、「語れ、詩神よ」という言葉が、この叙事詩全体が、
詩神の物語であることを暗示していることは考えるに価することである。
プラトンは詩人を「狂人」と呼んだが、
それは眼に見えぬ存在から詩想を「吹き込まれた」人間だからである。

おそらくヨーロッパの文学史上で、詩人のこの未知を見る役割りを、
意識的に自分の文学理論の中心に置いた最初の人間は、ランボーだった。
想念は天来のものであるというランボーの主張は、
心霊主義者のそれと基本的には同じである。
ランボーはボードレールの影響を強く受けていると言われるが、
ボードレールがスウェーデンボルグの影響の下に、
「照応」の理論を作り上げたことを考えると、この一致は偶然のものではないと言える。
スウェーデンボルグによれば、霊界は想念の世界だと言う。
この意見はすべての心霊主義者に共通のものだと言ってよい。
「霊界」というのは、私が「現実の背後の世界」と書いたもので、
俗に「死後の世界」と言うが、人間が肉体と霊体と両方から成り立っている、
と信ずるスウェーデンボルグによれば、霊体の属する世界のことで、
「貨幣の表裏の如く」現在、この場に存在しているのである。
霊界の諸相はわれわれの現象界とすべて照応していて、
(むしろ現象界が霊界を倣っているそうである)沈むことのない太陽が、
霊界の万物に生命を与えていると言われ、
これはランボーの「宇宙の霊」や「宇宙の智慧」に相当するものだろう。
霊界に存在するものはすべて想念である、というのは、たとえば、
誰かに会いたいと思ったり、なにかが欲しいと思ったりすると、
次の瞬間には眼の前に現われているという具合らしいが、
実際には個人の波長の違いや、人格の高低の問題があって、
そうアラジンのランプのような具合にはゆかないようである。
それから、念じなくても、あるいは意志に反してでも存在する、
人家や町、苛酷な、あるいは美しい自然なども、想念と考えると、
それは「宇宙の霊」の想念なのであろうか。

われわれの日常生活でも、見ようという意志がなければ、ものを見ることは出来ない。
物質の存在しない世界では、見ようという「念」が無ければ、
見る対象は現れないということになると、
想念と「見る」ということとはほとんど同義語と考えることが出来る。
想像力というのは、霊的世界においては、一つの現実であると考えることが出来る。
それは「念」と同じ喚起力であって、それによって呼び起される像は、
あらゆる霊界の像がそうであるように、現実である。
スウェーデンボルグの言うように、
この世界でわれわれは肉体的にもまた霊的にも生活していると考えるならば、
それは地上のわれわれにとってもまた現実であると考えることが出来るだろう。
人形に釘を打ち込んで誰かを呪い殺すとか、現代ではライン博士が実証した、
サイコロの一つの目を念じながら何回も投げると、
6分の1以上の確率になるということなどは、想念の力を示すものだが、
ランボー自身も、この想念、即ち「見る」力の積極性を自覚していたのであろう。
「見者」の説のサワリとも言うべき部分は、
この「見る」能力をほとんど暴力的とも言える方法で訓練することを主張している。
(「大切なことは、怪物のような魂をつくり上げることなのだ。」、
「詩人はあらゆる感覚を長く、無辺際に、
しかも思慮深く錯乱させることによって見者となる。」)
そして、その結果、詩人は天上の「火盗人」となることを目標とするのである。
ランボーの詩がほんとうに天上の火を反映しているかどうかは、
議論の余地のあるところだろう。

現代の神秘哲学者ルドルフ・シュタイナーによれば、
「霊界の中に、すべての事物の原像が存在する、
そして事物や生物の物質的存在形態はこの原像の模像に過ぎない」。
これはスウェーデンボルグの説とまったく同じだが、これを裏返して言うならば、
すべての人間の想念の描く像は、それ相応の原像しか霊界に持たないのであって、
更に「照応」の理論を拡大して考えるならば、
ある人間にはある原像しか呼び起す能力がないとも言える。
「怪物のような魂」には怪物のような原像しか見ることは出来ない。
これがランボーが「地獄の季節」を書き、
「天国の季節」を書かなかった理由かどうかはわからない。
しかし同じ霊界と言っても、光明(単に物理的な明るさではなく)の度合に応じて、
地獄界、幽界、霊界、天上界に大別され、それぞれはまた何層かに区分される。
スウェーデンボルグが描く霊界の様相だけでも広大で多様であり、
ランボーのちっぽけな「火」が照し出せるようなものではとてもない。
むしろ彼の詩には幽界と地獄界上層の一部の面影があると言えば、
この悪魔主義と錬金術に凝った驕慢な天才にふさわしいだろう。
「『見者』はその魂の生活が絶対に健康でなければならない」とシュタイナーは言う。
私はランボーの詩作及び生活の方法を批判することによって、
シュールレアリズムから現代文学にまで影響を与えている彼の文学上の功績にまでも、
疑いの眼を向けようというわけではない。
むしろ彼の提起した問題をもっと深めてゆくべきだ、と言いたいのである。
それは単に感覚や空想力の問題ではなく、現実を透して「見る」能力と、
魂を鍛錬する生活にかかわることである。
それは一時代の一詩人のみの問題でないことは言うまでもない。
文学の存在そのものにかかわることであり、
現代文学にとっても重要な問題をはらんでいるのだ。


「幽霊にさわられて」




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