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2008.10.18 精神と物質
私達は、一体、何を知っていて、何を知らないのでしょうか?

神秘は見ようとするものに対して開かれます。

驚異はあらゆるところに溢れています。

自然の光はいつもそこにあって発見されるのを待っているのです。




精神と物質の間の関係は、詩人が空想したものではなく、神の意志のうちにある。
だから、すべての人びとは、自由にこれを知ることができる。
この関係は、人びとの目に、それと見える時もあれば、見えない時もある。
幸運にもこの奇蹟を経験し、これについて考える時、
聡明なものは、自分は、ほかの時にはいつでも、
眼や耳はあっても無きがごとしではないか、という疑いをもつ。

こういうものが存在して、夏雲のように不意に襲いかかってくるというのに、
とくに驚かないでおられようか。(『マクベス』三幕四場)

こういう時には、宇宙が透明となり、
宇宙の法則よりも高い法則の光が、宇宙に輝きわたるからである。
これは、世界の初めから、あらゆるすぐれた天才を驚かせ、
天才の研究心を刺激した永遠の問題である。
エジプト人とバラモンの時代から、ピタゴラス、プラトン、ベイコン、ライプニッツ、
スウェーデンボルグの時代にいたるまで、いつでも天才たちの問題となった。
路傍にスフィンクスが座っている。
そしていつの時代においても、予言者がやって来ると、
彼は、スフィンクスの謎を解こうとして運だめしをする。
精神には、物質の形態のうちに、自らを表明する必然性があるように思える。
昼と夜、河とあらし、獣と鳥、酸とアルカリ、これらのものは、
神の心のうちの必然的な「理念(イデア)」のうちに先在している。
そして、精神界の先行的愛情の力により、現在のようなものになっている。
事実は、精神の目的、あるいは最後の結果である。
目に見える創造の世界は、目に見えない世界の境界、もしくは周辺である。
「あらゆる聖典は、これを著わした精神と同一の精神によって解釈されるべきである。」
これは批評の根本法則である。
自然との調和をもった生活、真理と徳とに対する愛、
これが人間の目をきよめ、自然の書いた聖句を理解させてくれるであろう。
次第に、われわれは、自然の永久的な事物の根源的な意味を知るようになるであろう。
そうなると、世界は、われわれにとり、開かれた書物となり、
自然のあらゆる形態は、そのかくれた生命と窮極の原因を現わすであろう。
今のべた観点から、おそろしいほど広汎にわたる多数の自然物を眺めて、
思索していると、新しい興味が、われわれを驚かす。
「すべての対象は、これを正しく見る者の魂から、新しい機能をひき出す」からである。
無意識の真理であったところのものが、理解され、ある対象のうちに明確に示されると、
知識という領土の一部分となり、力の倉庫のなかの新しい武器となる。


エマソン「自然について」




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