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2008.10.19 新宗教運動
一世紀近くも前に、
木村泰賢博士が提唱した新しき宗教運動です。

博士は、仏教界の現状を見て、どう思っておられるでしょうか?




自分は欧州滞在中、求道者にしばしば接するの機会を得た。
その多くは,名目上はやはり、キリスト教徒ではあったけれども、
その信仰内容となると全く伝承の教条とは異なるものが多かったのである。
神の超越性を否定し、イエスの神子説を排斥しながらしかも、イエスの人格を通じて、
内面の神に参するがキリスト教の本意であると確信している人にも逢うた。
スピリチュアリズムの立場より死後の霊魂と交渉することによって、
霊界の様子を確かむることが出来ると確信している人々とも交際した。
殊にドイツに於ては、一昨年の夏、タゴールの入独によりて、
彼の思想に共鳴するもの多く、しかも中には彼によって、
真のキリスト教が明らかにされると喜んでいた人にも逢うた。
その外、禅定的方法によりて、内面に沈潜することによって、
神を見ることが出来るというものもあれば、反対に愛の拡充によりて、
社会を道徳的に結合するが天国の実現だと信仰する人など、
種々の流義よりいわゆるキリスト教の真髄を得んと試みつつある人に逢うたのである。
かくして、自分は、教会的キリスト教は、個人の霊に対して、
暫く勢力を失いながらも、その代わりに、今や欧州の世界に、
新しき形のキリスト教が次第に醸発されつつありて、そのいずれかは、
他日或は大勢を支配するの力にまで高まるであろうと感じて来た次第である。
加うるに、未だ微弱ではあるけれども、今やインド思想、
殊に仏教思想に対する欧州人の理解、味得もかなりに進んで来て、
中には将来の真の世界的宗教は仏教を外にして、他に求むることが出来ぬ、
とて熱心にその宣伝に従事している個人又は団体も少なくはないなど、
見来れば西洋の宗教界もまた多事なる哉、と言わねばならぬ。
とにかく、総じて人心はなんらかの形で宗教的に転心しつつあり、
しかもその多くは、全く自己の要求に応じて改造されたる形において、
これを求めつつあり、ということは疑うべからざる事実である。
日本に於ける現下の状勢も全くその通りである。

世界に於ける成立宗教中にありて世界宗教の資格を備うるは、
いかなる宗教であるかというに、厳格にいえば、未だこれなしと言って然るべきである。
けだし、世界の諸宗教を見るにその優秀なるものといえども、
今日では多くの弱点を有するからである。
しかもこの点はやがて、今日の成立宗教が、
その勢力を失った原因の一つであることを思えば、
これなきはむしろ当然と言わねばならぬ。
しかしながら、もしこれに近きものを求むる段となれば、
吾人はこれを大乗仏教であると、あえて言わんとするものである。
吾人は将来の理想的宗教は大体に於て、
大乗仏教の精髄を根底としたものであらねばならぬと主張しているものである。

新大乗運動は、そのいかなる方向に向うとしても、
その期する所は、我等の全人格を挙げて、
それを統一的に満足せしむる底のものであらねばならぬ。
すなわちこれを心理学的に言えば、それは独り情的要求ばかりではなく、
智的要求にも意的要求にも満足を与え、
しかもこれを統一し鼓舞して光明界に導くを理想とすべきである。
宗教の領域は感情にあるから、
智的批判の如きは敢えて興らずというが如き独断的のものであってはならぬ。
仏陀の宗教的態度の特質は、
実にこの点に深く意を致した所にあったことを忘れてはならぬ。
事物をありのままに正視して、その間を貫く不変の法則を見出し、
これに依りて我等の意をも情をも統べて以て最高理想を実現せんとした、
仏陀のあの批判的態度は、いやしくも仏教である限り、
どこまでもその基調たるべきものである。
この意味に於て吾人は、将来の新大乗運動は、
少くもその態度に於て原始仏教に戻るべきを提唱せんとするものである。

極意に到れば、小なる自己を出発点として大なる自己に醒むるを目標とするが、
原始仏教より大乗を通して根底的信仰であった。
従って、将来の新大乗運動もまた、
その思想的基調に於てこの以外に出づるを許さざるは勿論である。
新大乗運動の役目はむしろ、
その小自己(有限生命)と小自己に内在する大自己(無限生命)との関係において、
その間に普遍性と必然性とを求め、
もってこれを万人が共通に味得し得るように組織立てる所にあるというべきである。

しかしながら、かく言ったからとて新大乗運動をもって、複雑なる理論によって、
仏教思想を現代的に系統立てることのみにありと考えてはならぬ。
むしろその実際化にあたっては、出来得る限り単純に、
出来得る限り容易たるを理想とする。
すなわち大乗の通俗的にして、
情味に富めるの特質を益々発揮し行くの必要があるのである。
智的批判に堪へ得るということと、単純化ということと相反するものではない。

仏陀は、人々悉く仏性ありとの見地より宗教的に四姓の区別を撤した。
新大乗運動はこの開放的精神を一層徹底せしむるの必要がある。
国民的区別なく、男女の区別なく、
まして大乗運動の特色として、僧俗の区別の如きは全くこれを撤廃して、
一切を平等に見て、平等に味得し体験しかつ、
これを講説し得る底のものたらしむるように努力せねばならぬ。
これすなわち仏教の民衆化であって、
やがて大乗運動が真にその到るべき所まで到るの目標であらねばならぬ。

仏教ははじめより広大なる愛と、厳粛なる道徳とをもって出発した。
特に大乗となると、その菩薩の理想とする所は、全く絶対愛(無縁の慈悲)と、
完全なる徳行とによって自他を救済する所にあった。
従ってまた、大乗運動もこの精神によるべきはもちろんであって、
しかも、これをもっと徹底的にやるの必要がある。
大乗に於て、観世音菩薩が三十三身にまで身を現して、
衆生の苦を救わんとしたのを仰ぐならば、新大乗運動にありては、
自らを菩薩として如実にこれを実行し実現するを理想とせねばならぬ。
銀行にも行け、炭鉱にも行け、資本家にも行け、労働者にも行け、
監獄にも行け、病院にも行け、到る所に行って、
菩薩の行願を実現して―独り精神にかぎりではなく、物質的にも、
この地上の極楽を実現するをもって、その理想として活動すべきである。





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